八幡平からの帰路、田代平で道に迷う


昭和十五年から八戸での足かけ三年間の飛行場づくりの間、末夫さんは仕事の合間を見つけては方々を歩き回った。
北の旅はどれもこれも苦難のつきまとう淋しい旅だったようだ。
今回は死に直面した末夫さんの、果てしない妄想にお付き合い願いたい。


 私が八戸へ行って間もない昭和十五年の秋、青森県の七戸町の西方に立つ八幡岳(1020メートル)を越えて裏八甲田の高原、田代平への旅に出たときのことだ。

 八幡岳には東京にいるときから一度登ってみたいと思っていたので、軍に三日間の休暇をもらって、その日の夕方から出発した。その夜は七戸町に泊まり、翌日三時起きして田代平へ抜ける県道を進んだ。出発するときの宿では、
「田代平の新湯までは明るいうちに着くのはちょっと無理かもしれないが、もし日が暮れたら、途中に炭焼小屋がほうぼうにあるから、そこに泊めてもらえばいいですよ」
と教えてくれた。ざっと地図を見たところでは山へ登っても二十五キロくらいの行程であり、いままでの私の歩行経験から十分に新湯温泉までは行けるという自信は持っていた。

 最奥の山館(やまだて)の寒村をすぎて小一時間も歩くと八幡岳への登山口があり、そこから山へ登り出したのだが、千メートルちょっとの低い山なのに、実に苦しい登りの連続で、山頂に着いたのが午前十時ごろになってしまった。

 八幡岳は旧暦の四月十五日が山ノ神のお祭りの日で、里人の登山がさかんだといい、立派な神社とお籠り堂ができていた。しかし、人の気配はなかった。山頂の展望は想像していた以上にすばらしく、青森全県が一目で見渡せるほどの大景観を楽しむことができた。

 ここまではどうやら平穏無事に来られたが、それから先に恐怖が待ちかまえていた。下山路は七戸町へ戻る往路一本しかなく、私は田代平へ出るべく、南方の和田川の谷へ向かって深い原始林のなかの道なき斜面を駆け下り、先刻の県道に出た。さらに二つの峠を越して、田代平の入口へ下りたころにはそろそろ日が西に傾いていた。途中、人っ子ひとり会わず苦しく長い道程だった。県道が田代平へ下りたところに製炭事務所の小屋があったが、人の気配はなく、その森閑とした静けさは、取りつく島のないほどの淋しさと山深さを感じさせた。

画像 道はここで二手にわかれる。右はリヤカー県道といい、製炭運搬路らしい。左は火箱沢(ひばこざわ)林道で、途中、新湯温泉のほうへ田代平を横切っている。このほうが田代平の風光を楽しむにはいいのだが、日はどんどん傾き出し、心細くなった私は少しでも早く新湯に出ようと、リヤカー県道の道をとった。しかし、県道とは名ばかりで、人気をまったく感じさせない高原のなかを細い小道が進んでいて心細いことこのうえもない。灌木をわけ、ところどころにある草原を横切って進む。あたり一帯、牧場にでもなっているのか、牧牛がひょっこり顔を出してずいぶん驚かされた。もの音ひとつしない山深い情景はいくら歩いても変わらず、新湯までのはるかな道程を感じさせた。

 途中で、駒込川を渡ったが、このころから秋の日の暮が一段と早さを増した。宿で聞いた炭焼小屋など、どこにあるのかまったく見当もつかなかった。この田代平を歩いていて、そこから見る裏八甲田の山々は実にすばらしかったが、夜になることを恐れてそうした景観を楽しむ心の余裕はほとんどなかった。急げば急ぐほど闇もどんどん追い駆けて来る。宿で作ってもらった昼飯も途中で食べ尽くしてしまい、今夜は空腹を抱えて無人の原野で野宿かと覚悟を決めつつ懸命に歩いた。

 夜の帳がようやくあたりを覆い始めるころ、はるか行く手にぽつんと小さな灯が見えた。このとき私は子供のころによく聞いた一つ家の鬼婆の話を思い出したが、夜の暗黒の恐怖を考えると鬼婆のほうがましだった。とにかく人間の傍へ行きたいと思って灯に向かって突進した。

 着いてみると、そこは土工の飯場だった。すぐ後ろは駒込川の深い谷で、何か治水工事でもしているようだった。聞けば、新湯まではまだ半日くらいかかるとのことで、「今日はここで泊まっていけ」とその人はいってくれた。飯場といっても、それは雨露を凌ぐ生子板(なまこいた)の屋根と、板を敷き並べた床があるだけで、四方に壁はなく吹き曝しのままだった。幅二メートルほどの細長い鰻のような床の上に莚を敷き、その上に薄汚れた煎餅布団が隙間なく並べてあった。男たちは十人くらいいたようだが、みな髭ぼうぼうの巨人ばかりで、一癖も二癖もありそうな面構えをしていた。彼らが人間であることに違いはなかったが、鬼よりも恐ろしい気だった。

 私はとんでもないところへ迷いこんでしまったと、こんどは別の恐怖が全身を走った。ここはきっと人の恐れるタコ部屋にちがいない。もうここから逃げ出すことはできないかもしれないと思うのだった。私が飯場へ辿り着いたとき、彼らの夕食は終った後だったが、親方らしい男が、残りものでいいならといって、彼らの食べ残した飯を食べさせてくれた。

 夜になると酒盛りが始まった。男たちは酒を呑みながら、じろじろと品定めでもするように私を見て、しきりにいろいろ質問してきた。私は東京者(とうきょうもん)が物見遊山にこんなところまで来るようでは、金もたくさんもっているだろうと思われることを恐れて、
「七戸の者です」
と嘘をついた。地元の人間だといえば、そうひどいこともしないだろうという思惑からだったが、言葉遣いから都(東京)から来た者じゃないかという彼らの目つきは私の嘘をはなから見抜いているようだった。

 酒盛りがすんで寝るとき、いつでも逃げられるように床の端のほうに寝ようとしたら、夜は冷えるからと、大男と大男のあいだに抱えこまれるように寝かされた。私は寝てはいけない、寝てはいけないと思っていたし、男たちの雷のような鼾のために一晩中まんじりともできなかった。

 私が殺されるとはっきり知ったのは、まだあたりが濃い闇に包まれている明け方近くだった。闇のなかで二人の大男が起き出してひそひそ話をしている。大きな声を出すなとか、銛を出せ、カンテラを出せ、ロープを持って来い、だいぶ錆びているから研いでおけなどとささやくのが聞こえる。うとうとしていた私は彼らの話を全部聞いてしまった。そしてそっと見るとひとりの男が、大きな出刃包丁を研ぎ始めているではないか。一方、言いつけた男は、ゴム長をはいて銛とロープを持ってどこかへ行ってしまった。

 私はきっといま出て行った男が途中で待ち伏せしていて私を殺し、金を取ったあと、ロープで体を簀巻きにして駒込川にでも放りこむのだと思った。それにしても出刃包丁はなんのために使うのだろう。ちょっとわからなかったが想像を飛躍させると、殺した私の体を料理して酒の肴にでもするつもりなのだろうか、この男たちならそのくらいのことはやりかねない。

 八戸の現場で土工たちが赤い犬を探してきて殺し、一日中、土のなかに埋めておいた後、鍋汁を作ってうまそうに食べているのを見たことがある。私もきっとそうされるにちがいない。そしてばらばらにされ、骨しか残らない自分、こんな深い山のなかで永久に死体もわからず、行方不明者としてこの世から消えてしまうのかと思うと、恐ろしいだけでなく何とも情ない気がした。

 まさか、とは思いながら、どうせ殺されるなら九死に一生を求めて逃げ出してみようかとも思ったが、出刃包丁を研ぐ男の目が光っているようで、そんな隙は見つからなかった。どうせ逃げるなら明るくなってからのほうがいいだろうと思い直し、夜の明けるまで、じっと布団をかぶって狸寝入りをしていたが、よほど疲れていたものか、不覚にもとろとろと眠ったようだった。

画像 恐ろしい夜が明けて、あたりがすっかり明るくなったころ、さっき出て行った男に、
「朝飯だよ――」
といって揺り起こされた。男たちはみな食卓のまえに座っていて、早くおいでと私を手招きしている。周囲は別に変わったようすもなく平穏そのものだった。私は狐につままれたような思いで、食卓のまえに座ると、大きな丼飯の脇に、目の下三十センチもある、みごとな岩名の塩焼きがのっていた。
「めずらしいものをご馳走しようと思って、けさ早く出かけてとって来たのです」
と、大男は笑みを顔に浮かべて話してくれた。それが人のよさそうに見えるのだ。ゴム長は水に入るための、ランタンは魚を呼び寄せるための、銛は魚をとるための、ロープは谷へ下りるための、出刃包丁は魚を料理するためのものだった。

 それを聞いたとき、この人たちの深い親切に対して、たとえ一時にしろ殺されるなどと考えたことを心から申し訳ないと思い、しばらくは涙がこぼれて飯が食べられなかった。

 出発のとき、私のために大きな握り飯を作ってくれて、そのうえ新湯まで送ってくれた。途中にある毒水湧出孔にも立ち寄っていろいろと説明してくれた。直径六十センチほどの穴が数個、口を開けていて、そこから冷泉を噴き出していた。毒水といっても人間には薬の水で、これを飲むと胃腸のぐあいがとてもよくなるというのだが、この水のためにこれから下流に魚はいないと説明してくれた。

  新湯温泉に着いてみると、そこは廃滅しており、倒壊した家屋が雑草のなかに埋もれていた。飯場の人は、ここまで来ればもう大丈夫といって帰って行ったが、私はその後ろ姿を神様を拝むような気持ちでいつまでも見送った。

 元湯温泉まではそれから二キロほどの道程であった。私はそこで一浴びし、帰りは有名な雪中行軍遭難碑の銅像を見て、省営バスの火箱沢林道入口のバス停からバスに乗り、青森に出てその日の夜遅く宿舎に帰って来た。

 私はこの旅以来、土方といわれる人たちがみな無法者であるという見方を改めた。その後、自分の担当する工事現場で彼らと仕事するときは、いつでも監督者でなく友だちとしてつきあうようになった。そいうい目で見ると、彼らは古風で義理人情の厚い人たちばかりだった。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉

※ 転記 太田


画像



ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック