八戸海岸の浜茄子と初恋


 昭和十七年の初めのころ、日本は戦勝に酔っていた。そして二月中旬、第一次戦勝祝賀会が開かれて、軍から私たちに菓子や酒などが振舞われた。世情にうとい私など、このまま日本が勝ち進むものと信じていた。しかし前年の暮、日本が開戦したちょうどその日、無敵を誇ったドイツ軍がモスクワ攻略に失敗し、ヒトラーは初めて退却を余儀なくされた日でもあった。軍はこれを知っていたはずだが私たちにはまったく知らされていなかった。三月十二日、第二次戦勝祝賀会が開かれたが、そのときには何の特配もなく、以後、こうした祝賀会は行われなかった。

 そして十七年の初め、飛行場の工事もほぼ終り、つぎはどこへ連れて行かれるのかと覚悟していたのに、それはまったく杞憂で、逆にその年の三月末日をもって徴用解除となり、足かけ三年、飛行場づくりに励んでいた八戸の現場を去ることになった。ところが、すでに昭和十六年十一月に兵役法が改正になっていて、丙種(私は丙種合格だった)も兵隊にとられることになっていたから、このつぎはいよいよ正式な兵隊かと覚悟を決めて八戸出張所の門を出たものである。

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 私が八戸の現場で暮らしているあいだに好んで歩いていたところ、それは宿舎から飛行場になる草原を横切って小一里(約四キロ)も行くと、八戸から尻屋崎に弓なりに連なる長大な汀線につきあたる。私はそこから北に向かって海沿いにどこまでも歩くのが好きだった。海岸は細長い砂地を除いて、見渡すかぎりの草の原で、初夏から秋にかけて可憐で美しい紅紫色の浜茄子の花が一面に咲き乱れていた。この北の花がなぜかはかない色の不思議な淋しさを漂わせており、その浜茄子のお花畑は夢に出てくる自然の一大花園のような錯覚をおぼえさせた。

 そのどこまでも続く草原の果てに、屋根だけを見せる淋しい三沢の村があり、その淋代平(さびしろたい)の草原の西に名も知れぬ白い鳥が霞でも棚引かせたように群れ飛ぶ小川原沼(おがらぬま)があった。それは本当に泣きたいほどにもの哀しい景観だった。

 八戸での飛行場づくりもそろそろ終り近くになった昭和十七年の春の初め、私はまたそこへ行きたくなって、海岸のほうへ歩いて行った。海岸に出て汀線を北へ歩き出したとき、
「長谷川さん!」
と、突然、後ろから声をかけられた。ふりむくと、いつも現場へ働きに来ているリンゴ園の娘さんが立っていた。
「そっちへ行かないで、どこまでも真っ直ぐ歩いて行きましょう!」
というのだ。

 真っ直ぐは海である。泳ぎを知らない私は、ものの十メートルも行かないうちに波に呑まれて溺れ死んでしまうだろう。それでそういうと、
「それでもかまわない」
という。私は彼女がてっきりからかっているのだと思い、笑いながら手を振って、いつものとおり北のほうへと歩いて行った。しかし、彼女の顔は固く強ばって、ふざけたことをいっているようには見えなかった。じっと私を見つめて浜辺に立ち尽くしている。私はその日は途中までで宿舎へ戻って来たが、感受性の鈍い私は夜になってようやく彼女の心がわかったような気がした。そして生まれて初めて自分が人に想われているという感情を味わった。

 私は幼いころから貧困のなかに育ち、勉強のできない落ちこぼれだったので、いつも友だちから馬鹿にされ、仲間はずれにされてきた。そのために、知らず知らず人に対してひどい劣等感を持つようになっていた。小学生のころ、学校では男組、女組のほかに男女組という制度があって、私はいつも男女組に入れられたのだが、新学期の初め、先生が同じ机に座る男女の組み合わせを決める、その発表のときが一番つらかった。私と一緒に座る女生徒が、劣等生の私と座ることを嫌がっているのではないかといつも恐れていたからだった。

 そんな私だから、人に好かれるなんてことは、ましてや女性に好かれるなんてことは金輪際考えたこともなかった。このころ私も二十九歳になっていて、女の人が嫌いというわけでは決してなかった。しかし、強い劣等意識が人並みに恋人をもつなどという洒落たことなど思いもよらなかったのである。また当時の道徳観からすれば、男女間の関係には特別にうるさかったから、私のような人間には娘からの誘惑はまさに禁断の木の実だったのだ。

 そんな私だったが、生まれて初めて知った人に想われているという喜び、そして浜茄子の花のように可憐な娘心に感激し、徴用が解除になって東京に帰ってから、私は二度ほど彼女の家を訪ねた。それは結婚の申し込みだったが、
「土臭い田舎娘が都会へなど出て暮らせるものか」
という彼女の兄の頑強な反対にあって、とうとうその話も沙汰止みになってしまった。

 八戸での生活はほかにもいろいろなことはあったが、兄の死の哀しさを除けば、軍務に服したといっても、むしろ懐かしい思い出となるもののほうが多かった。あの美しい八戸海岸や小川原沼の花園が、いつまでも昨日のことのように、はっきりした像となって目の底に浮かぶ。八十に近くなった現在でも、その像を追っていると、若き日に舞い戻ったように血潮のみなぎるのを感じる。そしてもう一度行きたいとよく思うのだが、そこがすでに巨大な工業地帯に変わってしまったと聞くと、私にとって心中の宝のようなその景観の喪失を恐れて、どうしても再訪することができないでいる。やはり、ひっそりと心の奥底にしまっておいて、ときどき取り出しては瞼の奥で眺めることが一番いいことのように思えるのだ。
 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉

彼女との会話やその晩の末夫さんの高揚感は、転記しながら「これって一方的な思い込みじゃないの?」などの疑問も湧いたのだが、以後、プロポーズのために二度も彼女の家を訪れているのだから、その間には極端に省略された経緯があることがわかる。
しかしこれでは行間も読めないではないか。
もう少し、筆を滑らせて欲しかった。

※ 転記 太田


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