太平洋戦争勃発


 昭和十六年の四月の初め、米が配給制となり、大人一人一日二合三勺(約340グラム)となった。五月には煙草も一人一日一箱に制限された。煙草を吸わない私は何とも思わなかったが、米が自由に食べられなくなるのかと思うと信じられない気がした。しかし、軍ではいくらでも食べられたので、そんな不安もいつの間にか消えてしまった。けれども都会の生活がかなり窮迫しつつあることは家からの手紙でわかった。頼りにしていた二番目の兄には死なれ、生まれて初めて経験する米の配給制、生活必需品の不足、都会生活のしだいに高まる非常時の慌ただしさと、母の心細さを思って胸が詰まったが、私にはいかんともできず、月々の仕送りをできるだけ多くすることぐらいしかできなかった。

 しかし、家からの便りも私にあまり心配をかけさせないためか、生活のようすを訴える手紙は二、三回かぎりで、それ以後は、「みな元気、しっかりやってください」というふうにかわってきた。私はといえば、軍にいるおかげで米でも日用品でもなんの不自由もなかったし、そのころの東北には非常時らしい影もなく、平和な日々が続いていたから、都会の窮迫もついつい忘れがちだった。

 また私は八戸にいるあいだ新聞はとっていなかったし、ラジオも持っていなかった。たまに掲示板でニュースを見るくらいで、きわめて世情にはうとかった。日本政府がドイツの勝利に幻惑され、ナチスにならえと危険な戦争への道を着々と歩き出していることなどもつゆ知らず、「日独伊三国同盟」と「独ソ開戦」と、「米と煙草の配給制」くらいの知識しかないボンクラな私だったが、昭和十六年の四月にはドイツ軍のギリシア、ユーゴ侵攻、六月にはソ連侵攻、それを迎えうつ連合国側の大西洋憲章の発表と、めまぐるしい変化のあったことを知ったのは、戦後もだいぶ後になってからだった。

 私が生まれてはじめて煙草を吸ったのは配給制になってからだった。軍では「ほまれ」という煙草を一日一箱配給してくれたが、とてもそれでは足りない友だちに頼まれて買ってやり、お礼に一本、二本と彼からもらって吸ううちに煙草の味を覚えてしまい、一箱六銭という安さに何の抵抗もなく吸うようになった。

 軍ではこの年の七月、私の本俸を四円上げて六十四円五十銭にしてくれた。東京の私の役所でも追っかけるように月俸五十八円の昇給辞令を送ってきた。それを見たとき、役所へ早く帰って来てくれといわれているような気がして、久しぶりに東京が懐かしく、帰りたいとも思ったが、秋ごろから重大なことでも起こりそうな気配が濃くなると、徴用解除の希望は持てなくなり、逆にこんどはどこへ連れて行かれるのかもわからないと、徴用者同士、漠然とした不安を胸に抱いて毎日を暮らすようになった。

画像 昭和十六年の秋、飛行場の整地と格納庫がほぼできたころ、航空隊が進駐して来た。そして毎日のように爆撃演習が行われ、私たちの作った飛行場から秋田や盛岡に向けて飛行機が発着するようになり、これを見るのは本当にうれしいものだった。飛行機は四角い胴長の単葉機で、銀色の機体はなかなかスマートだったが、素人目にもかなり古かった。迂闊にも私はそのころまで日本で飛行機が作れるとは思っていなかったが、れっきとした国産機だと聞いて吃驚したものである。

 遡って六月には独ソ戦が始まっていた。十月十八日には東条軍人内閣が成立、当時日本を取り巻く情勢は緊迫していたが、まさかアメリカとただちに戦争を始めるとは思ってもいなかったのに、年末の十二月八日、太平洋戦争が突如始まった。独ソ開戦のニュースは天地が引っ繰り返るほどに私を驚愕させたが、不思議に太平洋戦争のときは少しも驚かなかった。

 そのころまでのドイツは連戦連勝だったし、日本も開戦以来、真珠湾を壊滅させ、各所に敵を破る破竹の進撃で、年末までにはほぼ南方の資源地帯を占領して日本包囲のABCDラインを各所で破り、日本国民は大勝利に狂喜した。そしてすぐ来るぞといわれ、現場も一時緊張した空襲もまったくなく、当時、日本が負けるなどとは思いもしなかった。

〈草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉

※ 転記 太田


ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック