飛行場づくりと兄の死


前回の「飛行場づくりに八戸へ」からの続き。

 一年近くたつと、軍の建物がぽつぽつ出来はじめ、軍隊が入って来ると、こうした脱走騒ぎもなくなった。私はよく軍の自転車を借りて、休みの日など八戸へ遊びに行った。軍隊が入って来るようになると、帰りなど、帰営時間に遅れそうになった兵隊さんが青い顔して約六キロの道を駆け足で帰る姿をよく見かけたが、そんなときは私の乗っていた自転車を貸してやった。

 そうしたことのあった夜、下士官と一緒に自転車を返しがてら、そのころすでに貴重品になっていた餡パンをたくさん持ってお礼に来てくれる。そんなときの下士官の顔には部下を庇う優しさがあふれていた。こんなことが二度三度と重なると、兵営内の酒保の前を通ったりするとき、よく下士官に呼び止められて餡パンを二つ三つともらうことがあった。徴用に出るとき、見送ってくれた人たちのいう、「軍隊というところは非人間的な社会だから要領よくやれよ」といわれたことが何か嘘のように思えた。

 私が八戸へ来て間もなく、その年の暮、長いこと結核で寝たきりだった二番目の兄が死んだ。私の家にはこの兄を含めて三人の鉄道員がいたが、この兄が死んで、ついに鉄道とも無縁になり、それまで汽車にはただで乗れるものとばかり思っていたのに、好きな汽車旅行にも自由に行けなくなった現実に直面して、その淋しさは大きかった。私は兄の葬儀にも出られなかったが、三十五歳という若さで死んだ兄の無念を思うと、しばらくのあいだ仕事が手につかなかった。私が徴用に出発するとき、やせ衰えた手を差し伸べて、
「おれのぶんまでしっかり働いて来てくれよな」
と泣きながらいわれたことが、兄の最後の言葉になった。しかし日本を取り巻く世界の情勢は日増しに悪くなり、兄の最後の言葉を思い出しては、飛行場づくりに懸命に励んだ。


画像

画像左、斜めに延びる細い道に見える部分が旧滑走路である。
雨が降ると、かなりのぬかるみになったという。
末夫さんが造った施設はすでに跡形もない。

こうして昭和15年が過ぎ、いよいよ翌年、日本は太平洋戦争へと突き進んで行く。

※ 転記 太田


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