飛行場づくりに八戸へ

 それまで秘密にされていた飛行場の建設地とは、太平洋に面した八戸北郊の馬淵(まべち)川と五戸(ごのへ)川に挟まれた広大なデルタの上で、東方には太平洋の波頭がかぎりなく広がっており、丘の上は荒涼とした草原で、その大自然の荒々しいたたずまいが私にはとてもうれしかった。その荒原の西のはずれに「弘前師団八戸出張所」と、看板を釣り下げたバラック建ての事務所と宿舎ができていた。私たちはそこに寝泊まりして飛行場建設の工事管理に従事したのである。

 私たちにあてがわれた宿舎は囲炉裏つきの六帖の部屋で、しかも個室だった。軍の工事を請け負った業者が作ったものだという。山小屋のような板張りの荒っぽい作りだが、囲炉裏に火をおこし湯を沸かしてお茶を飲んでいると、まるで山小屋にでもいるような楽しい気分になった。この事務所には私たち徴用者のほかに、工業学校を出て直接軍属として勤めていた若い人たちや、現地で雇い入れた事務員、看護婦、運転手、賄いの夫婦など三十人くらいが寝泊まりして働いていた。

 ここで生活するようになって、仕事にも慣れ、あたりのようすがわかるようになると、私は暇を見つけては、あちこちと旅をするようになった。北の果ての旅は、なにかと苦難の多いものばかりだったが、その旅の思い出は後に書くことにして、八戸での徴用生活について少し記してみよう。


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 現場は完全に軍の管理下におかれ、初代の所長は主計大尉だったが、工事が軌道にのると所長はしだいに格が下がって、中尉となり少尉となり准尉となった。太平洋戦争が始まって軍人が不足すると、現場担当の主任技手が責任者となった。

 初代所長となった主計大尉はご婦人の好きな人で、常駐の看護婦とよくもめごとをおこして、看護婦が夜、私たちの部屋へ逃げこんで来たものだった。私たち数人集まって彼女を匿うのにずいぶん骨を折った。しかし初代所長のそうした事件を除けば、この主計大尉も含めてどの軍人所長さんも、実に私たちには親切で、軍人特有の冷たさはまったくなく、心の温かい人たちばかりだった。

 初めのころ、私たちはよく真夜中の場内巡視を交代でやらされた。所長も毎夜巡察をして歩いていたが、私が寝呆け眼を擦りながらカンテラを片手に歩いていると、ときどき所長と擦れちがうことがある。しかし暗いので所長とはわからずそのまま行きすぎてしまう。そんなとき、「ご苦労さん」と、先に声をかけてくれるのは決まって所長のほうだった。私はあわてて直立不動の姿勢になって敬礼するのだが、軍隊教育をほとんど受けていない私は敬礼のやり方もわからず、とっさのことで左手で敬礼をしてしまうこともあったが、所長はニコニコ笑いながら、
「手がちがうよ」
といって、右手での敬礼のしかたを丁寧に教えてくれた。これに類することはその後もたびたびあった。

 また私たちがここへ着任した初めのころ、仲間の若い軍属のなかには、ときどき数日間、行方不明になる者がいた。これは一種の脱走で一番罪が重かったはずだが、いつも所長の温かい計らいで内々ですまされた。そうした人の多くは故郷を遠く離れ、この荒涼とした原野のなかに、突然連れて来られた淋しさから一種のノイローゼになったもので、数日すると、付近の農家に潜んでいるところを発見され、連れ戻されて来るのだった。

 なかにはずいぶん奇抜な脱走騒ぎもあった。学校を出るとすぐ秋田からここへやって来た少年は、出たきり四日も帰って来なかった。事務所では大騒ぎになったが、四日後、平気な顔して帰って来た。聞いてみると、八戸の料理屋へ上がって芸者を呼んで大騒ぎをしたのだが、あまりおもしろくて軍務も忘れて流連(りゅうれん)してしまったのだと平気な顔で話した。

 またもう一つの騒ぎはさらに奇抜で、長野から来たわれわれと同じ職務の一人であったが、当時羽振りのよかった将校に憧れて、軍服から帽子、長靴、日本刀まで勝手につくってニセ将校になりすまし、事務所には二日ばかり休みをとって五戸とか七戸とか遠い町に遊びに行き、呑めや歌えの大騒ぎをして帰って来た事件である。彼は出かけるときには軍属服なのだが、帰りは酔っぱらった勢いで将校服のまま帰って来ていた。いつもは真夜中に帰って来るから、誰にもわからなかったのだが、ある夜、酔っぱらって帰って来ると、タバコの火も消さずに将校服のまま寝てしまい、そのうえ火事をおこしてしまった。火事のほうはさいわい発見が早くてボヤですんだのだが、ニセ将校の一件がばれてしまい、彼は処罰を恐れたのか、みんなが火を消している最中に、こんどは本当に脱走して行方不明になってしまった。このときも事務所では放っておけず、所員が四方八方手をつくして捜しまわり、数日後、土地の人の通報で山の中に潜んでいた彼をやっと連れ戻したのである。ところがこんな騒ぎをおこしても、所長は取り立てて罰を加えるということはしなかった。

 またこれは私のことで脱走ではないが、えらく上官を侮辱したことがある。私の工事監理した煙突が曲がっていると、見まわりに来た上官にいわれて、それが冗談だと思わなかった私は激怒して、馬鹿野郎、こんちきしょう、とあらゆる悪態をついて、あたりを蹴飛ばした。上官は笑いながら、
「冗談、冗談」
といって、私の見幕の激しさに手がつけられず、逃げてしまったことがある。これなどは当時とすれば大変な罰に当たるはずだが、このときも何のお咎めもなかった。

 事務所では脱走騒ぎがおこると、所員総出で軍のトラックに乗り、深刻な顔で捜索に出かけるのだが、これは考えようによっては楽しいドライブでもあった。ミイラ取りがミイラになるようなもので、人捜しを忘れ、いつも酒に酔ってぐでんぐでんになって、トラックの上で放歌高吟して帰って来るからだ。所長はそれを見ても別に何もいわなかった。

 なぜ酒に酔ったかといえば、脱走者の情報を得るために、途中立ち寄った民家で、兵隊さんご苦労様といわれて、焼酎とかどぶろくがよく振舞われるからだった。東北の人は酒が好きだ。出されればつい呑んでしまう。こんなことを四、五回繰り返していると、誰だって酔っぱらってしまうのは当たり前だった。焼酎が何たるかもわからず、生まれて初めてコップに一杯呑んだ私は、体が熱くなっただけで酔ったという感じはしなかった。こんな捜索を二日、三日と続けるのだが、いつも脱走者はわれわれの手では見つからず、付近の人に発見されて連れ戻されるのだった。脱走する人たちは脱走ということを、一般サラリーマンが二、三日無断欠勤するほどにしか考えていないようだった。

 私は荒涼とした大自然を友としていられたが、それができない人たちは、その無聊を慰めるためにたまには羽目をはずしたくなるのだった。そうした気持ちは、私にもよくわかる。軍ではこうした人々を慰めることを考えて、初めのころよく夜になると酒宴を開いたり、軍のトラックを使って休みの日などに日帰り旅行に連れて行ってくれたりした。下北半島の吹越烏帽子(ふっこしえぼし)という山に野生の山葵を採りに行ったり、近くの北沼での魚とり大会、種差(たねさし)海岸での海水浴、十和田湖見物など、みな懐かしい思い出の旅だった。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉

※ 転記 太田





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