徴用で弘前へ


今回から末夫さんにとっての「戦中」となる。
昭和15年6月10日に徴用令書が届いた。
いわゆる赤紙である。
しかし職能上、任地は自由に指定できたので、末夫さんは迷わずに東北を選択した。
翌11日は身体検査、身上調書をとり、合格となると21日、青森県の弘前師団経理部勤務となった。


 昭和十五年六月二十一日午後、弘前に着いた私は駅前の旅館に一泊し、翌日、弘前師団司令部に徴用者として出頭した。軍では私のために下宿を用意しておいてくれた。私はそこから毎日、師団司令部に通うことになった。

 弘前という街は子供のころ、汽車旅行で車窓から何度か見たことはあったが、街のなかを歩いてみるのは初めてだった。その静かで落ちついた古風なたたずまいは、一目見てすっかり気に入った。生まれて初めて遠い異郷に一人で暮らすという淋しさはほとんどなく、好きな東北へ長い旅にでも来たような気さえした。そのころの弘前は遠かった。東京から直通の急行はなく、普通列車で二十一時間もかかったのである。

 軍での仕事は青森県内の某所にできる軍用飛行場の戦隊本部の設計だった。木造三階建て、建坪百坪(330平方メートル)ほどのもので、そのころ民間ではすでに木造三階建ては禁止になっていたから、初めて取り組むこの設計は私にはずいぶん荷の重いものだった。

 徴用者は私のほかに十名ぐらい各地方から来ていたが、東京からは私だけだったから少し買いかぶられるようなところもあった。碌な学校も出ていず、独学とアルバイトで得た知識しか持ち合わせていなかったが、約二ヵ月間、懸命に図面を引いて、どうにかその設計図が仕上がったときは本当にうれしかった。

 七月になって、私が軍からもらった月給は六十円五十銭、それに勤勉手当が二十二円もついた。そのころは税金もなかったから、一躍八十二円五十銭の高給取りになって、急に偉くなったような気がした。以前、逓信省に臨時雇いとして勤めていたころ、若い学校出のお役人が五十円も六十円も月給をもらって優雅に暮らしているのを見て、特権階級のように羨ましかったものだが、いま現実に私もその仲間に入ってみると、無理して大学などへ行かなくてよかったと改めて思ったものだった。私はそのなかから毎月四十円を東京の母へ送った。職場での私の身分は陸軍雇員として完全な文官扱いだったから、苦しい軍務に服することもなく休日もきちんとあって、ふつうのサラリーマンと少しもかわるところがなかった。


画像

 弘前には岩木山というすばらしい山がある。朝に夕に、この山を望んで師団司令部に通勤する。岩木山は東北の名山としてあまりにも有名だったが、東京にいたころは秘境という感じのする山ではなかったから、長い時間をかけてまで登りに行きたいとは思わなかった。ところがこの山のお膝元で暮らしてみると、その優美な山容は非常に魅力的で一度は登ってみたいと思うようになった。しかし、戦隊本部の設計に命がけで取り組んでいたので、その仕事が仕上がるまではと我慢し続けた。だが、完成した八月中旬、私は急に飛行場建設地に移動することになって、ついに岩木山には登れないままに終ってしまった。
 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き山は友だち」より抜粋 〉


末夫さんが弘前にいたのは、わずか二ヵ月で、次の任地へ向かうことになる。
同じ青森県内だが、今度は太平洋側である。

※ 太田記す


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