再度の挑戦、定義温泉と船形山縦走 前編


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 仙台の船形山(1,500メートル)も無名の名山で秘境の山だった。昨年(転記者注 昭和14年)は山形側より登り、途中で大嵐に遭った。(参照) 縦走こそできたが、山そのものはほとんど見ず、ひどい目に遭って帰ってきた。今年ももう一度行ってみようと、赤城山以来、山好きになった三男の兄と二人(参照)で六月に出かけた。

 今回は宮城側より登り、山形側の東根温泉へ下る縦走だ。上野駅を前夜の夜行で出発、仙山線の熊ヶ根駅で下車、途中、有名な定義(じょうげ)如来に参拝し、のんびりと定義温泉まで歩く。静かな山のなかで人家も少なく本当に草深い田舎だった。行く手に船形山が美しく聳えている。約三時間、船形山の足元に着くと、そこにひっそりした定義温泉があった。温泉の周囲はどこでも賑やかなものだが、ここは宿も地味で少なく、浴客の姿も見当たらず、静まり返っていて、かえって淋しさに包まれていた。後で聞くと、定義温泉は療養者用の自炊宿が多いということだった。玄関は暗く受付カウンターもなく誰もいない。大きな声で来意を告げると、しばらくして少女が出てきて、奥の部屋へ案内してくれたが、ここでまただいぶ待たされた。

 宿に着くと、すぐ風呂に入りたくなるので、兄を残して一人で奥の浴場へ行った。廊下は暗く、何の表示もないのでどこが脱衣所だかわからない。ウロウロ歩きまわってやっと突き当たった奥に六帖ほどの板張りの部屋があった。ところが脱衣棚も光の入る窓もなく、真っ暗で、手さぐりでなければ歩けない。正面の壁に頑丈な鉄の扉があって、その隙間から四角く陽の光がもれている。そこが湯殿の出入口思われた。まるで牢屋のような脱衣所だ。私は裸になると、ドアを押してなかに入った。太陽の光が眩しい。そこは屋内ではなくて露天だった。

 旅館の裏庭に、直径10メートルのコンクリートと玉石でできた粗末な丸い池があり、なかに老若男女合わせて20人ぐらいの人が浸っていて、入って行くと、いっせいに私のほうを見た。それもじっと目を据え、瞬きもせずに見つめているのだ。こうしたとき、ふつうはちょっと見ても、すぐ目をそらすものだが、彼らはいっせいに私を見て視線をそらそうとはしないのだ。目つきが真剣でどうも変としか思えない。気味が悪いので浴槽の隅のほうへ移ると、連中はいっせいにゲラゲラと笑い出した。よそ者だと思って馬鹿にしてやがると思ったが、裸で風呂に入っているのだから動きようがない。
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 ところがそのなかの若い女がしきりに私のほうへ来ようと手を伸ばしてもがいている。そんな女がほかにも四人いる。しかし、いくらもがいても私のそばへは来られないのだ。どうも変だ。私が逃げようとすると、連中はゲラゲラ動物のような声を張り上げて笑い出した。全員が笑い出すから手のつけようがない。なにかおかしいことでもあるのかと、わけのわからないまま私も愛想笑いを返すと、それを見て、またまわりの連中がけたたましく笑い出す。薄気味悪いので逃げ出そうとすると、目の前まで迫ってきた若い娘が私の前で突然立ち上がった。一糸まとわぬ娘の体など、とても直視できるものではない。目をそらすと彼女は焦ったあまり体が斜めになり、私の目の前で横転して湯のなかに倒れてしまった。私も吃驚したが、湯のなかにいた老人が進み出て救い上げた。それを見て、私はとても湯どころではないと脱衣所に逃げこんだ。背後から、またワッという大爆笑が湧きおこった。私は彼らが大挙して脱衣所に雪崩こんでくるような気がして、猿股一枚身に着けると駆け出して兄のいる部屋に逃げこんだ。

 この温泉宿のあまりのひどさに呆れたが、部屋に戻って女中さんの話を聞いてやっとわかったのは、ここは精神病の人が湯治に来るところなのだという。ほとんどが頭のおかしい人で、湯はぬるいため昼夜兼行二日くらいは浸けっ放しにしておくという。一般の客はあのお湯には入らず、別に立てた湯に入る。患者はみな足を丈夫な縄でしばられていて歩けないようになっているから安心です、という。それを聞いた兄は大笑いしていたが、私はそれこそ一時はどうなることかと思った。患者のなかには用心棒として数人まともな人も入っているが、初めての者にはそんな区別はつかない。とくに凶暴な人は入っていないようだが、相手が重度の精神病では怪我をしても、させられ損だ。女中さんは、それはお気の毒でしたと笑いながら謝っていた。夜は別に風呂を立てて入れてくれた。寝ながら、まだあの生ぬるい湯に入っている彼らを思うと、病に取りつかれた彼らがかわいそうになった。夜は静かだった。

 翌日、朝四時に起き、弁当を作ってもらって五時には宿を出た。外には10人ぐらい患者さんがいて運動をしているようだった。私たちが玄関を出ると、みな一列に並んで、「さようなら」と手を振って見送ってくれた。軽症患者たちなのだろう。

〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉

本文が長いので、前後編に分けた。
定義温泉は一般の入湯は不可。
3.11による被害のため、営業自体も休止の模様。

(転記 太田)

     




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