昭和十四年


 旅の協力者・父の死

 昭和十三年も暮れ、来年は少しはよくなるかと期待をかけたが、昭和十四(一九三九)年になると、戦時色はますます濃くなった。正月早々、近衛内閣が総辞職して平沼内閣が成立し、近衛さんは無任所相として協力する形になった。一方、政府部内や学者グループに進歩分子がおり、これらを粛清する事件があったり、二月には海軍の海南島敵前上陸があったりで戦争は終りそうになかった。

 国民精神総動員実施要綱制定以来、軍と政府は協力して戦争推進をはかった。新聞、ラジオの戦勝報道はあっても、本当のことは何も知らされなかった。戦争に必要な物資から食料品にいたるまで禁止や制限が加えられ、そのため売り惜しみや闇値が横行して庶民の生活は苦しくなった。三月になると、大学生の軍事教練が必須科目になり、学生が軍の予備軍に組みこまれ、兵役に無関係な私たちまで、ときどき上野の山に狩り出されて人殺しの練習をさせられた。兵隊帰りの町のおっさんが得意になって教えてくれるのだが、軍事教練などやったことのない私など、「そんなことで人が殺せるものか」と、いくども木銃で殴られた。このときも私は大学などへ行かなくてよかったと思ったものだ。

 そして五月、またまたノモンハン事件がおきた。外蒙古のハルハ河の不明確な国境線をめぐるわずかな土地の奪い合いだったが、ソ連の停戦申し入れで九月、いちおうの集結を見たが、ソ連の言いなりに国境が決められたという。そのためか軍需産業はますますさかんとなり、上野駅には東北の年少者が続々と上京して軍需工場に送りこまれた。出征する軍人と見送りの旗の波とがぶつかりあって駅は戦場のような慌しさだった。旅好きの私であるが、いくら変装しても肩身は狭く汽車にも乗りにくくなった。そんなときでもサイクリングなら朝暗いうちに家を出てしまえばよかったし、一歩都会を離れるとまだまだ田舎は平和で暢気だったから楽しい旅ができたものである。

 七月になると、政府は国民徴用令を公布した。これは一般の徴用と違って、建築、土木など、特殊技術者を戦地に送り、兵隊と力を合わせて特殊作業につかせるというもので、兵役に関係のない私には、それほど重大にも思わなかったが、この法令の出た後すぐ役所の先輩二人が徴用されて南洋群島の防備のために連れて行かれた。まさかと思っていたことが現実となり、役所でも課長などから、つぎは君だと脅かされた。もし徴用が来れば私の人生も終りだと考え、せめて旅ぐらいはうんとしておきたいと思った。いままで懸命にやってきた建築技術の向上も内職も止めて、もっぱら旅をすることのみを考えるようになった。しかし、明日にも来るかと思っていた徴用令は、結局この年には来なかった。

 一方、支那がなかなか手強いのも陰で英国などが操っているからだと、「英国を撃て」という標語の下に、日比谷公園で反英運動の言論大会が開かれ、軍の指導で国民の反英思想をあおった。平和の夢も消し飛んで九月初めに第二次世界大戦が始まった。連戦連勝のドイツだが、ドイツと手を組んでいる日本も、いつどうなるか知れないと思うと、私でさえ安閑としてはいられない気がした。そしてますますひどくなる非常時の嵐のなか、十一月初め、政府は米の大量買付けを発動、十一月の下旬には、白米の搗精(とうせい)等制限令が公布され、七分づき以上が禁止ということになり、十二月末には向寒のおり、木炭も配給制となった。

 私はこの年の初めから米に対する漠然とした不安を感じていた。あらゆる必需物資が配給制や販売禁止になりつつあったから、米の政府買付けや搗精禁止などを見ていると、これからは米が不足になり、いままでのように自由に手に入らなくなるのではないかと思うようになった。そして、そうした澎湃(ほうはい)とした空気が世に広まると、米屋が威張りだし、売り惜しみをするようになった。闇がだんだんひどくなっていった。

画像 世の中の暗さと歩調を合わせるように、私の家にも不運が続いた。この年の夏の終り、父は盲腸炎から腹膜炎を併発し、手術直前に全身麻酔をかけられたまま死んでしまった。父は私のよき協力者だった。私たちが働き出して家計が安定しても、遊んでいることの嫌いな父は袋貼りの内職を趣味のように行って、わずかな手間賃を私の旅の費用の一部にしてくれた。

 父は木曽の山の中の生まれだったが、幼いころから読み書き算盤がよくでき、福島町(木曽福島町)の士族の家に養子にもらわれていった。しかし明治維新後の武士の没落は、山のなかにいても生活がむずかしく、夜逃げ同然に東京へ出奔した。父はよく権兵衛峠と保福寺峠を越えたといっていたが、どうして本街道(中仙道)をまっすぐ来なかったのか幼い私には不思議だった。しかしよく考えてみると、非合法に飛び出したのだから人目をさけて裏街道沿いに逃げていったからだと思われる。権兵衛峠を越え伊那谷へ入り、三州街道を塩尻、松本と歩き、さらに保福寺峠を越えて望月あたりから中仙道を下って来たようだ。父は高崎から汽車に乗ったといっていたが、高崎まで汽車が開通したのが明治十七(一八八四)年だから、そのとき父は十九か二十歳ぐらいだったろう。

 父の歩いた道を地図の上に見て、どんな旅をしてきたのかよく聞いておこうと思っているうちに父に死なれてしまった。多分、私のような苦しい貧乏旅行と同じだったのだろうと察し、元気なうちに私も一度歩いてみたいと思った。父は愚直でお人好しだった。私がもの心ついてから人一倍真っ当に働きながら、鉄道からもらった退職金を郷里の身内に貸してしまい、それが返らぬままにどん底に落ちこみ、地の底を這いずりまわるようにして生きてきた。私はこうした父の生き方から、人に金銭を貸したり借りたりしないこと、ただ働くことだけに人生を燃やしつくすことはよそうと思うようになった。私が旅することをいつも喜んでくれた人のいなくなったことが無性に悲しかった。

 父の死は兄にとっても大きな痛手だった。病状(結核)はこれをきっかけに急激に悪化したようで、もう再起は不可能と思われた。鉄道でも気の毒がって月に一度ぐらい出勤簿に印を押せば、出勤扱いにしてくれていたようだったが、いつまでもそんなことはしていられず、十四年の暮近く、ついに鉄道を辞めることになった。鉄道一家といわれた私の家もこれで鉄道とは縁が切れ、私たちを長らく旅へ誘ってくれた家族パスとも永久のお別れになった。


画像 私の旅はいつもコースを決め、途中の時間やあたりの風光を記録して帰って来たものだが、たまにはそうしたことをせず行き当たりばったりの自由な旅もよくした。主として日帰りで月二回以上は行ったと思う。

 冬の雪見、春の花見、夏の山菜採り、秋の紅葉狩りなどだ。冬の雪見は汽車の窓から見る程度だったが、花見は特定の名所へ行くのではなく、自転車で三、四時間もふらふらと走りまわるのだ。大きな農家の庭先や学校のまわり、名もない神社仏閣の境内などにみごとな桜の老木があった。人気もなく静かななかに見る満開の花の美しさは格別で、こうしたところを数ヵ所見てまわる花見はこのうえもなく楽しかった。また春から夏にかけて、蕨や筍、百合根掘りなどに行ったが、百合根以外は田舎育ちなのに、気味が悪いといって母は見向きもしなかったから以後やめてしまったが、百合根は砂糖で煮て食べると山の味がしてうまかった。芯は鉢植えにしておくと翌年花が咲き、その清楚な花を見ているだけで山を歩いているような気持ちになるのだった。こうした山菜は当時、東京を少し離れるといくらでもあったが、都会の人は、そんなものといった感じで、食べようとする人はほとんどいなかった。百合など少し丘のほうへ行けばいくらでもあった。採っても叱られるようなこともなく、自然がきわめて豊富だった。

 夏は多摩川や、ちょっと走って利根川へ水浴びに行く。川は浅く水は清く、あたりに人はいないから、二、三時間、猿股ひとつで水に浸っているだけで心地よかった。混雑する海水浴場などへ行く気などは、まったく起こらなかった。春の新緑や秋の紅葉もそのころ、武蔵野の台地を少し奥に入れば、目の覚めるような木々の彩りを楽しむことができた。よく行った清瀬あたりなど、少し奥へ入ると人家はほとんどなく、森と丘に囲まれた風景はまるで奥山へ踏みこんだような趣があり、樹林のなかを走る小道の途中で迷ったことさえあった。人も通らず人家もなく、静まり返った周辺の情景が気に入って私は何度も足を運んだ。川越街道沿いの平林寺の紅葉はとくにすばらしく、そのころ名所になったくらいだ。こうした自然探究の小旅行は昭和八年ごろから始めたが、自転車に乗り出してから毎月二回のわりで、ほうぼうを走りまわって自然美を求めた。

 < 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 >

※ 転記 太田



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