阿武隈高原縦走


 20年ほど前に末夫さんと兄と3人で阿武隈高原のこの辺りを車で走ったことがあった。あの時は平潟から湯岐(ユジュマタ)へ抜けたように記憶しているが末夫さんにどうしても連れて行けと頼まれたように覚えている。昭和13年頃のこの辺りの風景はこの紀行文で充分に伝わってくるけれど平成4年ごろの阿武隈高地も差して違わなかったように思えて、懐かしく文を読んだ。ことに湯岐温泉の湯治場の造りは明治、江戸といってもいいような落ち着いた鄙びた佇まいだった。温泉は鉱泉で温度は高くはないがこのようなお湯に浸かっていると幕末の水戸浪士の湯治のような錯覚に陥っても不思議ではないように感じた。あれから20年か。ずいぶんと変ったのだろうな。

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阿武隈高原縦走
(湯岐温泉 山中三里 弥太郎坂)
昭和14年1月2日~4日

此のコースは未だ知られざるハイキングコースとして、実に素晴しいもので有る。
途中には高峻な山岳はないが、眞に静かなる山の旅を味ふ事が出来る。
秋、冬、春がよく、二日續の連休を利用してするとよい。

上野を二番の列車で出発、水戸で水郡線に乗替えれば、東舘には其の日の二時か三時には着くで有ろう。
湯岐温泉へは駅前の道を眞直ぐに進むと、すぐ茨城街道に突当るから、此れを右へ折れ、村の出外れの製材工場の所から左へと入ればよい。
宝坂、押舘と田畑の有る静かな山村を緩に登って行き、入宝坂の部落を過ぎると道は急に楢の雑木へと入り、前面の丘陵へと登る。
六尺巾程の道で羊腸としているが、緩かな登りで夜道も楽だ。
暫くして道は平坦となり、丘陵上に出るとすぐ道路改修記念碑の所に着く。
此處で道は二分しているが、湯岐温泉へは左へ行くので有る。
振向くと背後の低い丘陵上に雄大なる八溝の連峯が浮き、更に彼方には高原那須、日光の高峯巨岳が雲表に聳えて壮絶な限りで有る。

扨、道は此れよりすぐ雑木林を抜けて水田へと出羽原谷地の小部落を過ぎて、更に水田の中を緩に下るとやがて湯川の谷へ下り、塙よりの道と合し、右に折れると湯岐前の部落に着く。
湯岐へは此處から更に湯川の左手を約30分程登り、左手より滝津瀬となって湯川に流入する。
小沢を越えた所から左へと急な道を上るとすぐ温泉場へ着く。
旅館は3軒有る。
どれも皆仝じ様なものだ。
湯場は3軒の旅館が共仝して管理している。
湯は無色透明のアルカリ泉で、胃腹病、神経衰弱に効くと云ふ立派な温泉だ。
浴槽は可成りに大きく、岩とコンクリートで出来ている。
ほんの此の附近の人だけしか来ないので、眞に静かなる山ノ湯で有る。
ゆっくり湯にしたって(※ 末夫さんの「東京弁」で、もちろん「浸って」である)旅の疲れを医すとよい。

翌日は成可く早く出発した方がよい。
少くとも6時には宿を出なければ駄目だ。
昨日の湯川沿の道迄戻って、更に其の道を登る。
暫すると背後に那須の連峯が美しく望める。
道は巨大な岩石の各所に露出した浅い谷合を湯川に搦んで緩に上るが、すぐ干泥の部落に着く。
こゝにも各所に温泉が湧出していて簡單な旅舎も有り、或は此處に泊った方が旅の快味は更に増すかも知れない。

此處を過ぎると道は谷合の細長い田の左手を進むが、周囲は椀を伏せた様な茅戸の小山が波の様に續き、実に長閑な阿武隈の高原を行く。
暫して小さな峠を越すと、すぐ片貝の部落に着く。
部落の出外れで殿畑への道と別れて、左へと再び上りとなる。
道は2、3回岐路が有るから、よく部落の人に尋ねるとよい。
暫すると再び小さな峠を越すが、又、田の中に出て池袋の部落に着く。
部落と云っても二軒しかないほんの山の中で、周囲はやはり椀を伏せた様な丘陵的山地で、其の中腹には2、3頭の牧馬の草を喰む姿が見られる実に静かな風景だ。
道は此處で再び2分するから、右へと再び上る。
大きな傘松の有る小さな峠を越すとすぐ敷袋の部落だ。
此處には家が一軒しかない。
此處で道は再び二分するから此れを左へと進み、更に小さな峠を越すとすぐ那倉に着く。
峠の上からは、此れから越える可き阿武隈の、波の様な山脈が美しく望めるで有ろう。

那倉からは、塙より茨城県へ越える県道となる。
道はやはり浅い丘陵の様な山で囲まれた阿武隈の高原を緩に上る。
限りなき静かな山の旅で有る。
道の両側には木柵が設けられて、取入れの終った田の中に無数の牧馬の馳驅する様が見られる。
阿武隈は馬の産地で、何處へ行っても此うした牧場的風景に接する事が出来るのは嬉しい。
又、どんな山の中に行っても田の有る事だ。
田の有る所には又必ず家が有る。
たった一軒しかない部落でも、田だけは立派なものだ。
又、桑畑と云ふものの無いのも、他の山に見られぬ変った所で有ろう。

扨、道は此れより再び小さな峠を越すと、すぐ福島県最奥の堺沢の一軒家に着く。
此れを約半丁程も下って小さな沢を越すと、もう茨城県で有る。
茨城県側にも堺沢の一軒家が有る。
此處から前方に和尚山が雄然として聳えて見える。
道は此れより再び小さな峠を越すが、すぐ眼下に夢の様な山小川の山村を発見するで有ろう。
其の上に和尚山が更に美しく聳えて見える。
道はどんどん下るが、すぐに四時川を渡ると山間の部落に入る。

県道は此れより和尚山の右裾を越えているが、此處から約3里、才丸迄は本街道唯一の難所で山中三里と云われ、途中にはカメ谷地の一軒家を除く外、全く部落がない。
特に称太郎坂の難所は、昔、猟師称太郎と云ふ者が猛吹雪に会って非業の最後を遂げたと云ふ因縁の所だけに、土地の人でも此の山越は容易でないとされている。
それだけに仲々面白味の有る道だ。
和尚山は山頂の展望が実に良いから、此れに是非登る可きだ。
そして途中より県道に出るがよい。

和尚山へは山小川の分教場の左手に付けられた小路を登るのだ。
約30分にして其の円頂に立つ事が出来る。
頂上は約30坪程の草原で、中央に石の小祀が有り、素晴しい展望だ。
東方には太平洋が絵の様に見え、小名浜辺りの岬角も手に取る様だ。
南方には花園が聳え、北方の大滝根山は雄大なる根張を見せて、只々快哉を叫しめるばかりだ。
八溝の連嶺は西方に浮き、更に後方に吾妻那須、日光の山脈が聳え、限りなき大展望で有る。
晝食でもして充分楽しむとよい。

扨、下りは頂上より只一本付けられた防火線に沿って下ればよい。
道はすぐ山小川小学校よりの道に合するから、此れを左へ折れ、和尚山の裾を進むとすぐ山中三里の県道に出る。
県道と云っても心細い小路だ。
道は楢や檪の雑木林や緩かな草原の山合を進む。
今迄は少し進むとすぐ田や人家が現れたが、今度は全くそれがない。
見渡す限り丘陵たる阿武隈の小山の連續で、一寸北支辺りの広野を想わせる様な荒涼たる山間で有るが、なんとなく明るい高原的風景を有している。

道は暫して二分する。
右は林道で磯原町に通じているものだ。
此の道を約半丁程下った所にカメ谷地の一軒家が有るから、こゝで一休みして行くとよい。
扨、県道は此れよりすぐ楢の原生林へと入る。
直圣3尺もの巨木が林立して凄い許だ。
やがて道は二分するから此れを左へと入ると、又すぐ二分する。
此處に高萩營林署の指導標が立っている。
右は花園への道だから、更に左へと進む。

暫すると道の左手に山ノ神の小祀が現る。
此こからいよいよ称太郎坂になるのだ。
道は別に嶮峻な所はない阿武隈らしい平凡な緩かな下りだが、可成りに長い坂だ。
道の右手は小さな沢で、周囲は鬱蒼たる樹林で囲まれた陰鬱な道だ。
それに先刻の林道が出来たため、余り人が通らぬと見えて道も可成りに荒れているし、ひしひしと身に迫る深山の気と共に、猟師称太郎の事等が想ひ出されて、知らず知らずの内に駆足となるを禁じ得ないで有ろう。

可成り下ると十文字に出るから、更に眞すぐに進めばよい。
道は此の十文字で一寸登るが、すぐに下りとなる。
此處迄下ると、もう才丸も近い。
道がやがて田の中に出るとすぐ才丸だ。
此こで再び旗立峠への上りとなるが、此れは大した事はない。
途中には岐路が多いが、峠のすぐ下迄炭焼が入込んでいるが、其の人達に聞けばよい。
旗立峠(ハタタテトウゲ)は昔、源義家が旗を立てゝ休んだと云ふ傳説の有る所で、頂上より太平洋の展望が良い。
平潟の美しい海岸がはっきりと見える。
背後には樹林を通して、雄大なる阿武隈を見る事が出来る。

道は此れより一気に平裾へと下るが、それからは里根川の浅い谷合を緩に下るヨーヂ(楊枝)方で、右へと小さな丘を越すとすぐ山小屋の部落で、此こからは常磐線関本駅へ歩いても90分、通り掛りのトラックに頼んで乗せてもらうも良いで有ろう。



以上は昭和14年に書かれた末夫さんの生原稿であるが、実際に出版された本で確認すると、昭和13年の山旅として載っている。
もちろん上記の原稿が真実の日付けであって、どこかの時点で何らかの錯誤が生じてしまったのだろう。
以下に、活字となって発表された「汽車が好き、山は友だち」から転記する。
※ ゲラのチェック時点で気づいたのか、「山中三里」が「中山三里」に、「称太郎」が「弥太郎」に直っている。


素朴な楽園、阿武隈高原横断の旅

 冬になると雪の少ない阿武隈高原の旅をよくしたものだ。この高原は高くはないが、丘のような小山があり、古ぼけた鉱泉宿があった。訪れるひとが少ないうえに素朴で、私にとってはまったくの楽園だった。私はこの年の正月の終わりに常磐線から水郡線へと阿武隈を横断する旅をした。上野駅を前夜の列車で発ち、関本駅(大津港)で下車、駅前の道を約一時間半かけて山小屋の集落に向かって歩く。ここから細くなる道をさらに進み、楊枝方、平袖の寒村をすぎて、小さな旗立峠を越えると才丸の比較的大きな集落に着く。旗立峠は昔、源義家が東征のさい、旗を立てて休んだところといわれている。頂上より四囲の見晴らしがすばらしい。才丸の集落はどこをさがしても自動車の入れそうな道はない。徒歩時代の面影を濃く残す阿武隈独特の静かな村だった。

 さて、才丸から道は約三里(十二キロ)、中山三里といわれる無人境を経て山小川の集落に入り、県境を越えて福島県へ達する。途中に弥太郎坂といって、昔、猟師の弥太郎が吹雪にあって非業の死を遂げたという故事にちなむ急坂があって、唯一の連絡路になっているのに、ほとんど人が通らないため道はかなり荒れていた。才丸を出ると道はすぐ小道となり、七百メートルの県境尾根が右手より近づいてきて、この山裾に並行して登るようになる。果てしない小山の重なりの道は一面の茅草に覆われた明るい高原といった趣で、ところどころに古い原始林の名残りの巨木や林が残っている。道は緩やかに上っている。通行人がほとんどないのか草が道を覆いつくしているので少々薄気味が悪い。よく見られる山間の田圃も一軒家もここにはなく、人の気配が少しもしない。このあたりが阿武隈高原の中央部で、さすがに奥山といった重厚さが感じられた。

 やがて県境尾根は遠ざかり、その尾根から派生する八百メートルほどの山を越え、小道が下りにかかるあたりで弥太郎坂は終る。なんとなく気味が悪いだけで、別に危ない個所はなかったが、ヤレヤレという気持ちになる。左手には花園山(八〇二メートル)が大きな根張りを見せて聳えており、振り返ると那須の連峰が遥かかなたに浮かんでいた。小道はさらに無人の細波のような小山のなかを続く。下っているのか登っているのか、いっこうにわからない高原のなかを歩く。中山三里はまだ続く。行く手に和尚山(八〇四メートル)の丸い草の山が見え、小道はこの足元を巻いて進む。頂きはすぐ上にあり、二十分かけて登る。山頂は十平方メートルほどの草原で中央に石の小祀があり、そこからの展望は、東方に太平洋、南方には花園山、西方に八溝山、続いて那須、日光の山々が雲煙に浮くさまを見ながら、昼食をとり、ゆっくりその景観を楽しむ。

 頂上より足下に桃源郷のような山小川の集落を見る。山小川に向かって山を駆け下りると、すぐ村に着く。ここで中山三里は終る。このあたりの人は純朴すぎるのか、眼鏡をかけたり、靴をはいているのや帽子をかぶったりしている人間を見ていると西洋人でも来たかのように家のなかに隠れてしまう。そのため道を聞くのにちょっと骨が折れた。道は山小川から四時川(しときがわ)の源流を渡って県境を越え、少し広くなって、那倉の集落へ入る。那倉から左へ道をとると、ふたたび小道となり、小山の波打つ高原を敷袋、池袋の寒村にいたる。そのあたりから牧場地帯になるのか、刈り入れの終った田のなかに放牧馬のいななきが聞えて詩情をそそる。やがて道は片貝の村に着くが、片貝から六百メートルほどの峠を越えると干泥(ひどろ)の村に入る。干泥には湯川というきれいな川が流れている。その川のなかに数ヵ所、温泉が湧き出していた。いい湯だが、宿の施設はなく、土地の人が入る程度の小屋ができていた。今日泊まる予定の湯岐という温泉はこの先で、湯川に沿って歩くと、ほどなく湯岐の温泉宿に着く。それほど立派ではない油障子の嵌った宿が三軒ほど建っている。湯治宿といった造りだ。浴場は大きく湯は少しぬるいが、長く入っていると心地よい。宿に内湯はなく旅館三軒の共同浴場になっていた。ゆっくり湯に浸ってひとときの平和を楽しむ。

 翌日は朝十時に宿を出て、湯岐前、押館と最後の阿武隈の旅を味わいながら、ゆっくり歩いて三時間、水郡線東館の駅に着いた。

 < 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 >

※ (転記 太田)




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