西下総サイクリング


 浜街道は水戸街道とも云ったようで今では常磐線とほぼ平行して水戸、平、へと通じている。昭和14年頃の小金辺りがどんなものだったのか今では想像するのも難しいがこの浜街道の周囲はどことなく昔の面影が強く残っていて終戦の年にはずいぶんと買出しに出かけたところだと聞いたことがある。また布施辺りは今から20年ばかり前に走ったことがあったがその頃でも細い道やまばらな人家に江戸時代のような佇まいを感じたことがあった。
 末夫さんはどこに行っても土地の人と話すのが好きでそういったことは小旅行であったとしても感じたり知識になったりするようで、私も心がけて話を聞くようにしている。それにしてもよく走るものだと感心する。


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早い初夏の朝日の昇る頃には千住を出発せねばだめだ。
心地良い新川を渡ったらすぐ右折して浜街道へと入る。
金町を出ると江戸川の堤防が気持よい。
松戸からは急に解放された田園地帯となる。
右手は丘で左手は広い田だ。
道は丘の裾を平坦に進むが、すぐ馬橋の静かな村に着く。
此處に万満寺と云ふ寺が在って、此の寺には運慶作の仁王尊が有る。
国宝に指定された素晴らしいものだから是非見るとよい。

扨、道は此れより右へと丘陵へ入る。
四、五回上下を繰返しつゝ進むとすぐ小金町だ。
此處にも日蓮宗の巨刹、長谷山本土寺と云ふのが有る。
此こは日蓮の三聖人と云われた日朗、日像、日輪の出生地と云われ、境内には其の遺跡が多い。
一走り立寄って寺僧に其の縁起を聞くのも面白いで有ろう。

小金よりは更に丘陵上を行くが、そう上り下りはない。
柏を過ぎると道は常磐線の踏切を越して丘を下り広い田へ出るが、其れを横切る。
再び丘陵上に登るとすぐに道は二分する。
左は野田への道だから此處で道を捨てゝ左へと入る。
少し来ると道の左手に歩兵聯隊の大きな兵舎が有る。

こゝで再び道は二分する。
布施へは右へと行くので有る。
道は細長い長閑な布施の部落を幾分下り目に進むが、やがて雄大なる利根の堤防に突当たる。
此處で道の右手にコンモリと樹木の茂った塚の様のような山が有るが、此處に布施の辧天(参照)が在る。
布施辧天は関東三辧天の一で、社殿は古いが竜宮造りの樓門を始め、堂宇整然として実に立派で有る。
ご本尊は弘法大師の御作と云ひ、元但馬国朝来郡筒ノ江村に在ったが、筒ノ江東夷辺鄙にして人々放逸慳貧なるため、辧財天此れを嫌ひ、此の地に飛び来たりたるものと云はれている。
参拝を了へたら参道傍の茶屋で一休みして出発するとよい。

扨、道は此れより布施渡津の前面に横たわる大利根を横断するので有る。
此ノ所実に風景が良く、其の大陸的景観は実に本コース唯一の金字塔で有ろう。
先づ堤防上に立てば目下に広漠たる利根の河原を望み、其の中には幾絛もの細流有り、太公望の釣糸を垂れるも長閑な風景だ。
更に彼方には秀麗なる筑波が其の雄姿を碧空に浮べ、雄大なる坂東太郎は水晶の如き清冽な水を満々とたゝえ、悠々として流る若草の堤防には時として牛馬の群遊ぶ姿を見る。
聞えるものは只鳥の春を歌ふ声のみで有る。
東京附近稀に見る一大秘境と云っても過言ではないで有ろう。

盡せぬ名残を惜しみつゝ利根を横断すると道は再び丘陵上に登り、戸頭の部落に着く。
守谷へは戸頭神社の前を右へと折れるとすぐに常總鉄道稲戸井駅の所で守谷への県道と合する。
稲戸井駅の前には平将門の妾、桔梗の墓が有る。
小さな塚で、昔は一度も花の咲いた事のない珍しい桔梗が二本有ったが、今は枯れて其の替りに公孫樹の木が植えて有る。
更に時間に余裕が有ったら、此れより北へ約一里、小貝川を渡った所上平字柳と云ふ所に有名な間宮林蔵先生の墓が有るから、出来得る限り見ると良い。
それから直接守谷へも出られる。

扨、稲戸井より守谷へは心地よい県道で、明るい丘陵を畑や松林を潜って進む。
右手の筑波も素晴らしい美しさだ。
軽い上下を繰返しつつ進むとすぐ守谷に着く。
道が守谷町に入ろうとする時、道の右手に西林寺と云ふ寺が有る。
此處には文部省指定重要美術品の東照權現画像が有るから、見たいと思えば正式に名刺でも持っていって申込めば見せてくれるで有ろう。
守谷町で見る可きは平将門の館跡で有ろう。
此れは町の中央から右へ一丁程入った所に在る。
守谷小学校の傍に有る。
初めに有るのが門の跡と云ふ所で、道の両側に土堤が突出して居る。
其の上には老松生茂り、石碑も在る。
更に奥に館跡が有る。
館跡と云っても僅に地形を存するのみで、田の中には半島状に突出した頂の平な丘陵の一部で、現在松杉が鬱蒼として生茂っている。
すぐ下は小さな沼で見晴がよい。
此の沼は、昔は大きなもので有ったと云ふ。
そして最近、大木を繰抜いて作った太古の丸木舟が多数発掘されたと云ふ。
古老の話では、此の舟は将門が邸前の沼に浮べて舟遊びに供したものだと云っている。

扨、水街道へは再び県道に戻って更に前進する。
町を出外れるとすぐ大きな松林へと入るが、此れを抜けると再び心地よい丘陵を走る。
右手の筑波が急に今迄の二倍くらいの大きさに見えるのに驚く。
やがて常總鉄道の踏切を越すとすぐ小絹の村だ。
大木で覆われた薄暗い小絹を出ると何時しか鬼怒川の堤防沿となるが、此れを下って其の右手を走るといつしか広い田の中へ出る。
前面の筑波は更に大きく美しい。
其の下方には黒い帯を横に置いた様な水街道の町が見える。
道が此の広い田を横切って再び丘陵上へ上ると、もう水街道の町で有る。
水街道は猿島郡の名邑で、可成り殷盛な町だ。
此の町には別に見る可きものはないが、郊外に累の遺跡と名刹弘経寺が有るから此れを見るとよい。

町の中央で下妻への道と別れ左へと進み、町外で豊水橋で鬼怒川を渡る。
橋上より鬼怒川を距てゝ筑波が佳く素晴しい。
一葉の藝術写眞を見る様で有る。
扨、橋を渡ったらすぐ右へと川沿に入る小路を取る。
道は余り良くはないが自転車で楽に走れる。
約三十分も走ると大花、羽村、羽生と云ふ部落に着く。
此處に累の遺跡が有るのだ。
部落の人に聞けばすぐ判る。
遺跡は累の殺された所で、今此こに墓も在る。
墓は陰気な雑木林で囲まれた一團の墓地の中に在って、毀れ掛った様な木柵の中に小さな石碑が建っているのがそれだ。
墓前に立つ時、何人と云えども哀れなる累女に對し、一掬の涙を禁じ得ないで有ろう。
累の殺されたのはすぐ後ろの河原だと云ふ。
又此の墓の傍には此れ又毀れ掛った様な小さな寺が有って、此こに一人の老僧が居て尋ねて行くと嬉んで類に関する色々な面白い話をしてくれる。
東京辺りで嘘だらけの講談等を聞いてるより、いくら眞実味が有って面白いか知れない。

扨、弘経寺は往路を途中迄戻って、それより右へと入るとすぐだ。
村の人に聞けばすぐ判る。
寺は浄土宗の名刹で、家康の孫、秀頼夫人天樹院の墓が在り有名で有る。
又、祐天上人を輩出した寺としても知られている。
天樹院の墓は門を入って左手に在る。

扨、かえりは今来た道を戻らず更に前進するとすぐ結城よりの県道に合するから、此れを左へと進む。
右へ五丁程行くと元三大師があるから、一走り立寄るも良いで有ろう。
扨、左へ進むと約一粁程で水街道より古河方面への県道に合するから、此れを右へと取る。
道は丘陵とも平地ともつかない明るい畑の中を殆平坦に進む。
右手には再び美しい筑波が雄大なる姿を現すで有ろう。

大口、猫実、神田山と淳朴なる村々を過ぎ、左手に菅生沼の末端を望むとすぐ長い松林へ入り、これを過ぎると賑かな岩井町に入る。
此の町は此れから通る境と共に、未だ自動車以外に完全な交通機関がなく、取残された様な町だ。
それがためか少しも都会風な所がなく、昔の儘の姿をしているのが嬉しい。
大正初期の東京を見る様な懐かしさを有している。
此こにも別に見る可きものはないから、一休みして充分町の気分に接するも良いで有ろう。

岩井よりは再び美しい丘陵や田畑の間を縫って走り、途中の風景も素朴で実に気持がよいが、特に鵠戸沼を過ぎる所、仲々素晴しいものだ。
沼中に突出した半島が島の様に見え、近江の琵琶湖を小さくした様な美しさで有る。
境は江戸川、利根川の両水運を利用して、昔時は物資交通の一大宿場として盛えた町だが、今は全くさびれて一地方的小邑になってしまった。
これから古河へは約三里。
右手には絶ず最後の美しい筑波の姿を望む事が出来る。
途中、大堤には熊沢蕃山の墓が有り、古河で汽車の時間に余裕が有ったら古河城跡を見るとよい。
下總もこゝ迄来るともうお終ひで、川一つ向ふは下野で有る。


※ (転記 太田)




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