回想 富士山麓 身延山サイクリング


前回は末夫さん若かりし20代前半に訪れた時のものだったが、今回は彼の著書「汽車が好き、山は友だち」を上梓するにあたって、当時(昭和十三年)を回想した文章である。
私も三年前に、末夫さんと同じコースを辿ったことがある。
末夫さんは二輪だったが、私は四輪で、もちろん日帰りだ。
今回はその三年前の写真を散りばめながら進めることにしよう。

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 十一月二十二日、新宿駅を自転車と一緒に終列車で発ち、明け方三時ごろ大月駅に着く。吉田町まで平凡な道だったが、始めから終りまですべて上がり坂でとても苦しい思いをした。しかし、まだ薄暗い明け方の空に鹿留山や三ツ峠が道の左右にシルエットを描き、一休みするごとに目を楽しませてくれて疲れが抜ける思いだった。約三時間でやっと吉田町に着く。とても寒い。朝早いせいか街は半分寝ていて休憩するところもなく、すぐ出発した。吉田町から富士の裾野の大樹海を潜って進んでいく。富士山は途中河口湖から少し見えたが、あとは前列山地に隠れて見えなかった。山麓には洞穴が多いが観光客の姿もなく、いちいち見るのも面倒と、すっとばす。やがて陽も高くなり暖かくなってきたので途中紅葉台へよって、山の上の休み茶屋で一服する。紅葉見物にはもう遅かったが、それでも色あせた紅葉が盛りをしのばせる。眼下に西湖が輝き、外輪山の王岳は碧空に立ち、富士は秀麗のかぎりをつくしていて、その景色を大いに楽しんだ。 紅葉台を出発してすぐ近くにある富士氷穴見物に立ち寄った。十七、八の少年がカンテラを持って案内してくれる。入口は大きいが、なかは狭い穴の長さ六十間(約百十メートル)、氷の壁や氷の柱、氷の池などがあり、みごとな氷の洞窟だった。見物料十銭をとられる。


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三十分ほど見物して氷穴を出発、また本道に戻って赤池の集落から精進湖の淵を走り、本栖に出る。景色のいい静かなところだが、観光客の姿はほとんど見られなかった。


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本栖から道は駿州往還とわかれて右に曲がり、まだ工事中と思われる新しい道に入る。本栖湖の縁の二つのトンネルを潜って外輪山を抜けると急に富士山は見えなくなる。道は一気に広大な富士川の谷へと下るのだ。しかし、この道は路盤が工事中で大きな岩の砕片が敷き並べてあり、ゴツゴツしているので自転車では走れず押して下った。それでも富士川の流れと南アルプスの山々がとてもすばらしかった。羊腸とした急坂を下っていくと、やがて中ノ倉で、ここから道はよく自転車は急坂を走り下った。
常葉に入るとすぐ指道標に導かれて左へ折れると、すぐ下部の温泉街である。広くもない道の両側に、古風な木造の宿がマッチ箱を並べたようにびっしりと建っている。二階の手摺に手拭いをかけ、老人が煙草を吸っているさまは、いかにも湯治場にふさわしい風景だった。道はすぐ山に突き当たる。狭い谷間に開けた温泉場である。賑やかではあるが温泉街特有のちゃかちゃかした感じのないのがうれしかった。宿の女中さんはも木綿の絣の着物に前掛けを締め、赤い襷がけで愛想よく迎えてくれた。持ちこんだ自転車を見、東京から走りぬいて来たといってもすぐには信用してもらえなかった。山の料理で夕食をとり温泉に入る。湯はぬるかったが、長く入っていると体もあたたまる。半日入っているという老人もいた。


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 翌朝もう一風呂浴びて、弁当を作ってもらい、六時には宿を出る。いったん昨日の道に戻ってから、さらに走ると、波高島(はだかじま)で大きな河原に出た。洪水で橋が流されて渡し船が通っていた。川幅は広いが流量はたいしてない。料金は思し召しといわれたが、時間がかかりそうなので、自転車を背負って川を渡った。川を渡ると対岸は下山(しもやま)で、ここで駿州往還に合流する。古い街道の家並みのなかを富士川に沿って波木井(はきい)をすぎ、さらに一走りすると身延山の門前町、狐町(きつね)に着く。有名な寺院の門前町だけにじつに賑やかだ。

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 入口に車を預けて奥へ進むと、やがて山門に達する。ここから境内となり、長い石段(二九三段)を登る。

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 山の中腹は切り開かれて大きな広場ができている。中央に壮大な本堂が建ち、その重厚な構えに圧倒され、思わず頭が下がる。左手の山の上に奥ノ院があった。奥ノ院が身延山の頂上で海抜千百四十三メートル(現在千百五十四メートル)である。そこまではまだかなり時間をかけて登らなければならないので、下から遥拝して登頂を割愛。本堂にて日本の戦勝を祈願した後、広場前面の見晴らし台に出て展望を楽しむ。西方に七面山あり、その奥に聖岳から赤石岳の南アルプスの巨峰が夢のように連なる。どうしたことか富士山は見えなかった。


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 参拝に約一時間、ふたたび車上の人となり、駿州往還をめざして走り下る。小さな峠のトンネルを潜ると、再度、富士川沿いを走り、やがて比較的賑やかな南部の街に入る。南部から道は富士川を離れて大和峠を越える。小さな峠だが峠頂からの富士山が美しかった。ここで昼食を食べて一休みした後、富士川べりを万沢(まんざわ)、内房(うちぶさ)と快走する。富士川は依然として広い河原を保持し、流水がしぶきを上げて蛇行するさまは一幅の絵を見るようだった。山は崖になって迫り、道は崖にしがみつくように刻まれている。周辺は南画でも見るような趣があった。内房で峠越えを避け、近道をとるため川を渡った。ふたたび対岸に戻って本街道に合流する。このあたりまで来ると川幅はさらに広くなり、海が近いせいか空が明るくなる。

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 南松野をすぎると、また山が迫るが、すぐ開けて太平洋の波頭を望む。ほどなく蜜柑畑の散在する岩渕に入る。ここから東海道を左に取り、富士川大橋から富士川に最後の別れを惜しみつつ、沼津、三島と走り抜ける。車上からはたえず富士山と愛鷹の秀麗な山容を見ることができた。三島で旅を終え、列車で帰る。走行約百五十キロ。

 < 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 >


過去を回想しながらの記述であることは当然だが、前回の末夫さんの原稿(参照)と読み比べてみると、末夫さんにしては珍しく、ほぼ丸写しであることに気付く。
若かりし昭和十三年からやがて老境に至り、昔を回顧する時、手掛かりは当時の記録である。
古い記録からさまざまなことを連想的に思い出し、それでも付け加えたのは一ヶ所、下部温泉での簡単な情景のみだ。
一冊の本を作るには、その過程でページ数やレイアウトなど、いくつもの制約があるから、あまり長くすることが出来なかったのだろうと想像する。

前回の最後に、「小さな、しかしどうでもいい嘘」があると指摘した。
本当にどうでもいい瑣末なことだから読み流しても構わないのだが、「汽車が好き、山は友だち」研究には欠かせない部分と考え、その個所を二つばかり抜き出してみる。
まず一つ目。
現在は国道300号線となっている下部への道。
当時の原稿には以下のように記載されている。


道は急な谷間を巧に山腸を巻いて、羊腸して下る。
足下下方に此れから下るべき道が山を崩し谷を埋めて、幾曲りも幾曲りもして下って行くのが見える。
実に素晴しい下りだ。
前面には南アルプスの大峯が今迄より更に大きく、魁偉な山容を浮せていた。
中ノ倉を過ぎると下りも大部楽になり、長塩からは殆ど平坦となる。
常葉から身延線に沿って走り、下部温泉迄はもう僅かで有る。



自転車を漕いでの旅だから、
「足下下方に此れから下るべき道が山を崩し谷を埋めて、幾曲りも幾曲りもして下って行くのが見える。実に素晴しい下りだ」
と書いてあれば、その羊腸とした急坂を、風を切って颯爽と、一気に二輪で走り下ったと思ってしまう。
「実に素晴しい下りだ」とまであるので、さぞ軽快に気持ちよく高度を下げて行ったのだろうと想像した。
ところが、本にするために書いたその部分では、次のような記述になっている。
こちらが真実なのだろう。


道は一気に広大な富士川の谷へと下るのだ。しかし、この道は路盤が工事中で大きな岩の砕片が敷き並べてあり、ゴツゴツしているので自転車では走れず押して下った。


もちろん現在はすべて舗装されていて、「羊腸」の表現もそのまま当てはまるし、二輪でも四輪でも軽快に下ることが可能だ。
当時、一番に気をつけなければならなかったのはパンクだから、大きな岩の砕片が敷き並べてあれば、押して下ったのも当然のことだっただろう。
「実に素晴しい下りだ」の真意は、下り一方の楽な道のことを指すのではなく、紅葉の終わりかけた景色や、わずかな谷筋からたまに見える南アルプス東側の前山である、笊ヶ岳や布引山の名残の紅葉を称える表現だろうと分かる。

さて二つ目。
下部で一泊し、翌日、波高島の村を流れる富士川の河原に着いた部分だ。
当時の原稿には、次のように、さらりと書かれている。


川巾は広いが、水の流れているのはほんの一寸だ。
然し流れは物凄く急だ。
対岸に身延山が聳え、更に後方に笊ヶ岳が聳えて見える。
洪水(昭和13年の)で橋が流失したので、渡で川を渡り対岸に出ると下山の部落で、駿州往還に出た。



これだと、自転車と共に、渡し船で対岸へ渡ったことになっている。
ところが本の記述は違う。


洪水で橋が流されて渡し船が通っていた。川幅は広いが流量はたいしてない。料金は思し召しといわれたが、時間がかかりそうなので、自転車を背負って川を渡った。


これが二つ目の、小さな、しかしどうでもいい嘘だ。
意気盛んな若い頃の末夫さんが書いたものと、そして老境に差しかかって上梓した本とを、つぶさに読み比べていると、たまにはこんな発見もあって楽しい。


今年は3.11以降、暮らしはもとより、生き方、考え方の転換にも迫られ、満足にブログもアップできず、更新の頻度も極端に減った。
こんなつもりではなかったのだが、予想外のことが起こるのも世の常。
世の常で済ませられないことは百も承知だが、私生活でも想定外の連続で、パソコンに向かう機会も減った。
しかし始めたからには貫徹しなければならない。
「昭和という波瀾に富んだ時代をしたたかに生き抜いた一庶民の貴重な生活の証言」
を少しでも多くの方に知ってもらいたく、細々とではあっても、これからも継続させる決意を再認識している。

ブログ開設当初は、末夫さんの生原稿を載せれば、読んで頂けるものと思っていた。
ところが、周囲に聞いてみても、字が細かすぎて一度も読んだことはないとのこと。
読んでもらうために、ブログ幅を最大限に広げてみたが、その効果もないようだ。
何日間もの時間を費やして膨大な枚数の原稿を写真に収め、整理したことは無駄だったとは思わないが、読んで頂けないのなら、それを転記するしかない。

今年以上に来年は忙しくなりそうだが、末夫さんの旅や登山も、次第に東北へと進む。
3.11はもちろん、モータリゼーションなど暮らしや環境の激変ため、まったく別の姿を晒してしまった現在の東北と、まだいたるところに手付かずの山や渓谷が存在していた戦前の東北との対比は貴重だと考えている。
その違いの手掛かりは、末夫さんの原稿の中に凝縮されている。

ブログの更新頻度は落ちた。
その状態が来年も続くかも知れない。
しかし、当時の貴重な資料でもある原稿には、今では考えられないほどの価値を見い出している。
時間のかかる作業ではあるが、5分でも10分でも時間の余裕があれば、数行ずつでも転記して置き、それで毎回、渾身の一本勝負のつもりでアップしていきたい。
これが、昭和の市井の一庶民史であり、また山や旅の貴重な記録を遺してくれた末夫さんへの供養でもあると考えている。

年内の更新はこれが最後かは未定だが、年間を通じて読んで下さった方々に感謝。(太田)



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この記事へのコメント

雪国暮らし
2011年12月25日 14:49
毎回日記と共に興味深く拝見して居ります。私はあなた様のご尊父がこのサイクリングをされた昭和13年の生まれで、冬にはかまくらが幾つも出来る豪雪地帯で暮らして居ります。この処の雪で毎日の除雪が欠かせません。一昨日は除雪中に石を巻き込んだらしくベルトを切断してしまい、乏しい年金の中から痛い出費に泣いたりして居ります。当地はそちらとは違って山間地ではないのが救いでありますが、同じ雪国に暮らす者としての御苦労が伝わります。お書きになられている正にご指摘の様に御尊父の遺された原稿がどうしても見辛く、転記して頂いた文章を頼りに毎回楽しませて頂いて居ります。旧かな使いも懐かしく、御尊父よりは若輩ながら御尊父の生きた昭和を私自身の追想混じりの心持ちで拝読して居ります。御苦労な作業とはお察ししながらも、転記された御尊父の文章を楽しみにして居りますので、これからも御尊父の文章への軽妙洒脱な感想と共に時には辛口の感想をお続け下さる様願って居ります。これからが雪本番ですので怪我など無きよう願って居ります。