富士山麓 身延山サイクリング


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昭和十三年、世情は措いて、末夫さんには充実した年だった。
今回は中古の実用自転車での、夜行二日のサイクリングを紹介する。
季節は11月後半、紅葉の終わりかける時期だった。
少々長い転記だが、最後まで読んで頂ければ幸いである。


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新宿を最終で出発すると、大月には翌朝の3時頃に着くで有ろう。
吉田への道は大月の街を出てすぐ左折して緩かな登りとなる。
此の道は吉田迄登り続けだから可成りに苦しい。
それでも谷村を過ぎ小沼を出る頃は、夜も明けて美しい富士や三ツ峠の高峯が聳えて疲れを慰めてくれる。
吉田町に入ると富士が崩れる様に高く迫って見えるのには驚く。
三ツ峠も道志山塊も限りなき美しさだ。

町の中央、銅鳥居の所で精進方面への道を取る。
富士山麓電鉄の線路を渡り、荒涼たる富士の裾野を緩に上るが、すぐ下って河口湖畔の船津に着く。
県道は此處で二分し、右へ行けば御坂峠をこして甲府で有る。
精進方面へは左へ行くのだが、こゝで一寸県道を捨て、湖畔の直遥道路を走るとよい。
道は湖畔のすぐ傍を通るので実に美しい。
湖水は東京の水より美しい水で、底を泳いでいる魚の姿が見える程だ。
見渡す限り鏡の様な静かな湖で、其の美しさは言語に絶す。
対岸の黒岳の連峯が、まるで鬼の様な魁偉な形相をして、更に其の姿を湖面に浮べている限りなき美しさだ。

勝山で再び本道に出て、又上りとなる。
足和田山の左側を鳴沢への上りだ。
緩かだが一寸苦しい。
富士は左手に益々高く、崇高なる山容を聳えさせている。
大和田を過ぎる頃より大部登ったと見えて、目下に河口湖が望まれる。

更に前進。
行手に南アルプスの峯頭が見え出すとすぐ鳴沢に着いた。
部落を出ると、道は広漠たる一大溶岩の地に出る。
黒い角張った大きな岩が見渡す限り重畳して、其の上に倭少な松や雑木が生茂り、とても明るい一大公園の様な所で有る。
更にこゝは溶岩噴出(貞観六年)の際、大きな樹木の幹を溶岩が包み、其のまゝ固まって後、樹林が朽って出来た大きな穴が六ヶ所程有り、鳴沢樹形と云って天然記念物に指定されている。
傍の亭に休みながら、ゆっくり見学するとよい。

扨、道は此れより美しい赤松の林を走る。
左手には富士が限りなき美しさだ。
暫くして蝙蝠穴と記した大きな標柱の所に着く。
こゝで車を止め、傍の小道を左へと十分程入ると、重畳たる溶岩流の中に蝙蝠穴が有る。
穴は扁平な畳二十帖敷くらいだが、山賊の住家を想わする様な、鬼気迫る様を見せている。

再び本道に戻り、更に双輪を走らすと、今度は一大芒原に出る。
富士も又、更に美しい。
道はすぐ紅葉台入口に着く。
再びこゝで車を止め、紅葉台へは約二十分。
頂上に立てば、目下に藍を流した様な西ノ湖が有り、精進湖も見える。
鬼ヶ岳の連峯が屏風の様に目前に聳立する。
其の上に南アルプスの峯頭が一寸頭を出している。
又、目下一面の大樹海は青木原の原生林で、怒濤の如くに押拡っている。
背後には富士の秀容が、浮き絵にも口にも現し得ざる美しさだ。
山上の茶屋に休みながら、充分展望を楽しむがよい。

再び本道に戻り、更に双輪を走らすと道はすぐ二分する。
「富士穴経由精進へ」の指道標に従ひ、左へ入るとすぐ先刻、紅葉台から見た一大原生林へと入って下り、すぐ富士穴に着く。
十銭出すと、十七、八の少年がカンテラを持って案内してくれる。
入口は非常に大きいが、中はうっかりすると頭を打付ける程だ。
穴の長さ六十間、最低所は地面下七十尺で、そこには氷の壁や氷の柱や氷の池が有り、実に見事なものだ。
この穴は鍾乳洞と異り、溶岩噴出の際出来た大きな気泡で有ると云ふ。
一寸水晶の御殿にでも入った様な美しさで有った。

道は此れよりもう下り一方で、すぐ先刻別れた本道に合し、米栂生茂る青木原の原生林をどんどん下る。
途中では御殿庭を除く外、全く富士は見えない。
一寸北海道辺りの原始林の街道を走っている様な心地良さだ。
どんどん下って、やがて目下に精進湖が見え出すと、すぐ湖畔の赤池に着く。
こゝからは富士が見えた。
道は一寸の間湖畔を通るが、又すぐ原生林の中へと入って下る。
精進よりの道と合して尚も下ると、すぐ本栖に着いた。
こゝで小憩の後、右へ最近開通した下部新道を走る。
道は未だ出来たてで砂利道の走りにくい道だが、本栖湖のすぐ渕を走るので実に気持がよい。
本栖隧道を潜り少し進むと、後方に湖を通して富士を望む素晴しい絶景が展開する。

中ノ倉隧道の前で最後の展望を楽しみ、一歩隧道を潜ると下部側は物凄い深谷で、本栖湖の如何に高所に在るかと驚く。
道は急な谷間を巧に山腸を巻いて、羊腸して下る。
足下下方に此れから下るべき道が山を崩し谷を埋めて、幾曲りも幾曲りもして下って行くのが見える。
実に素晴しい下りだ。
前面には南アルプスの大峯が今迄より更に大きく、魁偉な山容を浮せていた。
中ノ倉を過ぎると下りも大部楽になり、長塩からは殆ど平坦となる。
常葉から身延線に沿って走り、下部温泉迄はもう僅かで有る。
今日はゆっくりと、この山の湯に旅の疲れを医すがよい。

翌日一風呂浴びて出発するとよい。
往路を一旦下部駅まで戻って、それより下部川に沿って下ると、暫して波高島の村に入り、大きな富士川の河原に着く。
川巾は広いが、水の流れているのはほんの一寸だ。
然し流れは物凄く急だ。
対岸に身延山が聳え、更に後方に笊ヶ岳が聳えて見える。
洪水(昭和13年の)で橋が流失したので、渡で川を渡り対岸に出ると下山の部落で、駿州往還に出た。
こゝで左折、この街道を富士川に沿って走る。
富士川の川巾は実に広い。
それだけに渓谷も明るく、限りなく豪壮な渓谷美を発揮している。
道は此の美しき渓谷を眺めつつ軽い上下を繰返し、下山隧道を潜るとすぐ波木井の部落に着く。

こゝで身延駅よりの道と合し、暫し富士川と別れ、右へと身延川に沿って緩に上る。
約二十分程で身延山総門前に着く。
開永関と書いた大きな額の掲げて有る総門を潜るとすぐ狐町で、土産物店や旅舎の立並ぶ間を行くとすぐ身延山の山門前に着く。
左へ行けば七面山だ。

こゝで傍の茶屋に自転車を預け、山門を潜るとすぐ石段となる。
両側は鬱蒼たる杉並木で、可成り長い石段で二九三段有った。
此れを上がり切ると大きな広場に出て、本堂、祖師堂、納骨堂等の久遠寺の大伽藍が立列び、得も云われぬ森厳なる浄地をなしている。
背後は鬱蒼たる杉林で、其の上に身延山が浮き、左手遥高方に七面山が望まれた。
参拝を了へたら廊下伝に各建物を参観するとよい。

扨再び輪上の人となったら、再び総門の前に戻って、先刻の道を更に身延川に沿って前進する。
緩だが仲々骨は上りだ。
暫く此の上りが続くが、やがて川と別れ、隧道で峠を越すと道は一気に中野に下がり、再び富士川沿ひに走るが、すぐ南部に着く。
此の町は身延町に次ぐ大きな賑やかな町だ。
道は此れより戸栗川を渡って、再び右へと富士川と別れて大和峠への登りとなるが、この峠は大した事はない。

峠を越すと富士川が見えた。
道は一気に楮根に下り、再び富士川沿となる。
富士川は依然として川巾が広い。
両側の山々は押合ふ様に迫って、何十丈もの絶壁が連続し、道は其の中腹を羊腸して走る。
富士川の急流は足下の岩頭に白玉のしぶきを上げて奔濤し、又淀んで藍を流した様な深渕も有る。
実に雄大限りなき渓谷美だ。
対岸には身延線が数多きトンネルを潜って走って居る。
私の来た時は丁度紅葉が真盛りで実に美しかったが、新緑の頃も又実に良いで有ろう。

道は一寸山の開けた福士を過ると、再び美しい絶壁の中腹を走った。
賑やかな萬沢を過ぎると道は再び小さな峠をこすが、すぐ富士川沿となる。
此の辺は山も一番急で道も羊腸し、渓谷も特に凄い。
足下何百丈もの下を激流岩を噛んで流れる所、慄然たる絶景は続く。
又、前面に突出した半島が一寸島の様に見えたりして、とても実際に見た者でなければ、其の美しさを知る事は出来ない程だ。

道はやがて内房に着く。
こゝで左へ折れて川を渡るとすぐ芝川に着く。
こゝで昼食でもたべて小憩するとよい。
芝川を出ると再び川を渡って其の右手を走るが、すぐに北松野に着く。
こゝ迄来るともう山は大部開けて、左手に富士や愛鷹の高峯が美しく望める。
南松野を過ぎると山は再び迫るが、すぐに開けて前方に太平洋の波頭や富士町が一目に見えた。

さて、もうこれで富士川の渓谷は終ったので有る。
自転車はすぐみかん畑の有る岩渕町に着く。
富士川大橋から富士川に最後の別れを惜み、東海道線を沼津へは、たえず愛鷹や富士が、其の秀麗なる山容を見せてくれるで有ろう。

[付記]
本コースは一年を通じて何日でも良いが、特に春か秋が良い
で有ろう。


相変わらず美辞麗句が並び、オマケに「県道ではなく河口湖畔の直遥道路を走るとよい」とか「紅葉台では充分展望を楽しむがよい」とか「鳴沢氷穴はゆっくり見学するとよい」とか「下部温泉で旅の疲れを医す(癒す)がよい」とか「久遠寺参拝を了へたら廊下伝に各建物を参観するとよい」とか、要らぬおせっかいか親切心かは分からぬが、芝川で「昼食でもたべて小憩するとよい」とまで書かれると、思わず笑ってしまう。
しかしこれも当時のいわゆる「旅行雑誌」に投稿を繰り返していたための、意識的なアドバイスなのだろう。
それにしても、始めと終りの部分は鉄道利用であっても、その脚力には脱帽するしかない。
それも現在とは違い、変速機のない実用自転車だったということを忘れてはいけない。
と同時に思うのだが、私ならきっと、文章のところどころに「くすぐり」を入れてしまうだろう。
しかしストイックな末夫さんは生真面目一本で書き進めている。
性格なのか、時代なのかは知る由もないが、人柄が偲ばれる記述ではある。

次回もほぼ同じ内容でアップするが、今回の文中に見つけた、小さな、しかしどうでもいい嘘を明らかにする。
と書いて、小さな、しかしどうでもいい、次への繋ぎとしよう。(太田)


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