昭和八年


昭和八年の原稿が2本続いたので、ここでその年の内容にも触れて置かねばなるまい。
書き進めていた時代からは数年さかのぼることになるが、末夫さんの著書「汽車が好き、山は友だち」から、八年の部分を抜粋する。
のっけから「役所に入って絶望した」とあって、現在の役人天国と比べれば、そんな時代だったのかと思う反面、給料は安くても、羨ましい悩みだな、と思う羨望が先に立つ。
大震災や原発事故はもちろんのこと、いつまでも続くデフレと不況、それに円高が加わったことによる社会や経済の閉塞感。
それらが、相も変わらず政治不信や厭世気分を加速させる。

昭和ひと桁の時代と現在を単純に比較しても意味のないことだが、末夫さんは親友の死に接し、その悲しみや絶望から脱却する意識の転換に触れて、こちらも少しだけ前向きになる。
今回はその友情物語でもあるが、とにかく始めることにしよう。


 私は鉄道学校時代に一人の親友を得た。彼、岡田君はまじめで勉強もよくできた。そんな人柄が好きで親しくなったのだが、臨時雇いとはいえ役所に入って自分の将来に絶望し、生きていくのが嫌になったりすると、いつも彼は「そんなことに負けるな!」と、激励してくれた。
 彼も卒業後、どん底に喘いでいた。彼は父のやっていた夜店を手伝っていたが、昭和七年ごろから一本立ちして雑司ヶ谷で夜店を出し、雑貨を商っていた。私が彼を偉いと思うのは、大道に筵を敷いて、品物を並べ、アセチレンガスの下で、一生懸命講義録を読んで勉強していることだった。

 「専検(旧制の専門学校入学者資格検定試験)を取って、もっといい学校に行き、父や母に孝行してやりたい」
 というのが彼の口癖だった。私は世の中が嫌になると旅をして苦しさを紛らわしていたが、そんな彼を知ってから年に数回彼を旅に連れて行くようになった。私の知る範囲の人は、すべて貧乏人ばかりで、物見遊山をする余裕のある人などいなかった。彼もその例外ではなかったから、旅に誘うと目を丸くして喜んだ。私のすぐ上の兄が彼とよく似ていたので彼を兄に見立ててパスを使うのだが、一度も見破られなかった。しかし、こうしたチャンスは年に数回しかなかった。なぜなら汽車賃はただでも、食費その他の雑費は乏しい私の財布から出さなければならなかったからだ。

 彼は旅をしながら一緒に専検の勉強をしないかとすすめてくれた。くよくよしていても努力しなければ道は拓けない、というのだ。当時、専検に通ることはむずかしかったが、彼と一緒ならばできないこともないかもしれないと思うようになった。また彼は、私が自転車を欲しがっていることを知って、一年ぐらい夜だけでも手伝ってくれれば、中古を買う資金ぐらいはできるだろうといってくれた。しかし、私には夜店に出て物を売る度胸がなく即答はできなかったが、一緒に働けば彼のそばで勉強ができるし、自転車を買うことができる。それに彼はすでに中古を一台もっていたから、休みの日など、二台の自転車を連ねてサイクリングをしたらどんなに楽しいだろうとも思った。さんざん考えあぐんだ末、昭和八年の春、やってみようと決心して池袋にある彼の長屋へ出向いた。ところが彼は粟粒(ぞくりゅう)結核にかかって、わずか三日で死んでしまったと聞かされ、私は立ちすくんでしまった。
 この晴天の霹靂ともいえる彼の死に、それまで心に描いていたすべての夢がガラガラと崩れ落ちていく思いがした。これから先、何を頼りに生きていけばいいか、そのショックの大きさに哭いた。

 木々が新緑に萌えるころ、彼の故郷遠州森町にある墓へお参りに行った。東海道線の袋井駅から三里の道を歩いた。彼の墓は町はずれの農家の淋しい裏庭にあった。土を一尺ばかり盛った上に、握り拳ぐらいの自然石が一つのっているだけで、戒名も俗名もなく、案内してくれる人がいなかったから、そこが人間の墓とはどうしても思えないようなささやかなものだった。将来に夢をかけ、懸命に生きてきた彼があまりにも惨めで、涙が止まらなかったが、それは自分自身の行く末を見るようで、生きていることの無意味さをこのときほど強く感じたことはない。
 帰りの列車のなかで彼の面影を追った。車窓を流れる風景のように、彼との短かったつきあいのさまざまなことがらが頭のなかを駆け巡った。彼を数回旅へ連れ出したことは、せめてもの餞だった。

 昭和七年五月、坂田山心中事件が起きた。当時の暗い世相を反映した象徴的な出来事で、人生に絶望した多くの若い人たちの共感を呼んだ。昭和八年になると、三原山では投身自殺が大流行した。(五月二日までに男女合わせて四三人投身)この坂田山心中事件は歌にもなり、映画にもなった。「暗い日曜日」という歌まで大流行、感じやすい若い人々の心にアピールして、まるで自殺を謳歌するかのような時勢だった。そうしたなか親友に死なれて先行き真っ暗になった私は、どうせ花の咲かない枯れすすきと、自暴自棄になっていった。

 < 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」から抜粋 >

親友に死なれた末夫さんは、失意に沈み、彼と一緒に登った昭和七年の浅間山登山(参照)を思い出す。
そして翌昭和八年、再び浅間山を目指す。
この山行こそが、前回の記事(参照)で、その記録は短く、また、さまざまな感情の全てを排除して、淡々と書かれている。
そんな裏事情を隠し、実は、内には言い知れぬ喪失感を抱いての登山だったことが分かる。
今回の大震災でも、親しい人を亡くした絶望の現実を受け入れられずに、後を追って自ら逝った人もいた。
続けるが、ここからは以前の「浅間山登山」と内容が少しダブる。


 湯ノ平高原へ戻って、そこで息を整えた。そして気持ちが落ち着くと、死がいかに困難で勇気のいることか、いまさらながら思い知った。そして、自分は何のために死ななければならないのだろうか、その差し迫った理由を探してみたが、何もないことに気がついた。あるのは自分の弱さと意気地のなさだけだった。
 そう考えたとき、死ぬ気でやればどんな困難にも打ち勝てるはずだと悟った。そう思うと肩にしがみついていた死に神が、すっと離れていき、気持ちがずっと楽になった。それにしても死んでしまったら、二度と湯ノ平高原のような美しい大自然も見ることはできない。たとえ乞食になっても、この大景観を友として生きて行ければ、それだけでもしあわせなのだと一種の悟りを浅間山で得て帰って来た。
 山から戻ってからは、かなりしたたかな人間になったように思う。どんな不愉快なことがあっても、自信を失うようなことがあっても、死ぬことにくらべれば、いくらでも耐えられた。私には美しい大自然の友がある、そう考えると、少しも淋しいとは思わなくなった。そして旅を重ねるうちに、「やはり生きていてよかった」と思うのだった。

 < 同 抜粋 >


浅間山頂上の噴火口を前に、末夫さんの体は震え、足も萎えて、死の恐ろしさに夢中で逃げ下っている。
そして不思議な事実にも気付いた。
昭和七年の原稿を見直すと、親友の「岡田君」と登ったはずなのに、同行者は「長島氏」とある。
そして八年のこの時にも同行者がいる。
そんな状況で、果たして、これ見よがしの身投げを考えるだろうか。
何かがおかしいが、末夫さん亡き今は、もう確認する術がないし、ご子息に訊いてもおそらく分からないと答えるだろう。


画像昭和八年とは、どんな年だったか、簡単に触れて置く。

時代は五・一五事件の翌年である。
ヒトラーがドイツ首相に就任してナチス政権が誕生し、2月20日には小林多喜二が治安維持法違反容疑で逮捕され、翌日には特高の拷問によって獄死している。(参照)
思想弾圧の象徴として知られる滝川事件もこの年のことで、政治はもちろんのこと、軍の暴走も止まらず、リットン調査団の報告書を元に、国際連盟が満洲撤退勧告案を可決したことにより、代表の松岡洋右が退場、国内からは「ジュネーブの英雄」として、歓呼で持て囃されたのは誰もが知るところ。
その後、日本政府は国際連盟脱退の詔書を発布、同じく国際連盟を脱退したドイツとともに世界から孤立した。
ルーズベルトが大統領に就任したのもこの年。
そのアメリカではニューディール政策が始まり、14年振りに飲酒が解禁された。
再び国内に目を向ければ、3月3日には岩手県釜石の沖合200キロ付近を震源とした、マグニチュード8.1の「三陸地方大地震」が東北東部を襲い、大津波などで三千人以上の死者を出している。
宮沢賢治が亡くなったのは9月。

それでも暗い話題ばかりではない。
末夫さんの好きな山関係では、おそらく縁はなかったろうが、10月に上高地帝国ホテルが開業しているし、鉄道関係では、丹那トンネルが貫通している。
今上天皇の誕生もこの年だ。

こうして見ると、末夫さんも大変な時代を生きていたことが分かる。(太田)



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