食糧豊かな楽園、三陸海岸の栗拾い


三月から四月にかけては、年度またぎで一年でも一番忙しい二ヶ月だ。
どうにか乗り切らねばと思っているうちに、あの3.11が来た。
ちょっとした関わりから被災地へ救援、支援物資を届けに、頻繁に宮城へ往復するようになった。
そうなれば、「もう年度末だから」などと言ってはいられない。
ピストン輸送だけならまだ楽だったが、トラックや人員配置の関係で、たまに現地で一泊し、後片付けの真似事のような手伝いもする。
それは瓦礫と化した住宅建材の除去であったり、側溝に溜まった悪臭を放つヘドロ掬いだったり、中年のにわかボランティアにはつらいものだった。
しかし、近くで黙々と作業をする高齢者も何人かいて、年齢を聞くと、みんな六十五歳以上の人たちだ。
てっきり自宅の後片付けかと思えば、遠く四国や九州から駆け付けたボランティアだと言う。
私は、腰が痛い、腕の筋肉が悲鳴を上げている、などの愚痴をすべて飲み込んだ。
私よりはるかに年長の人たちが、見ず知らずの他人の惨状を見るに見かねて作業に当たっているのだ。
ただただ、頭が下がった。
同時に、日頃から愚痴を吐き、自分優先で生きて来たことを恥じた。
「困っている人がいるのに、傍観は出来んでしょう」
その言葉を聞き、一層、自分の日常を恥じた。

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前置きが長くなったが、そのような事情で、とてもブログどころではなかった。
しかしここへ来て、若干の時間も捻出できるようになったので、久し振りに更新する余裕らしきものが生まれた。
今までは昭和十一年から十三年辺りの末夫さんの原稿を、ほぼ時系列にアップしていたが、今回は一気に時代を下って昭和十八年、戦時中の食糧難の話を載せることにした。
幸いというか、三陸沿岸を久慈から宮古まで南下した記事を紹介する。
いま現在の三陸海岸からは想像も出来ないほど、人々は人情に厚く、また、食糧も豊かだったことが分かる。
文中には、昭和八年の津波に触れた記述もある。
ブログタイトルにも入っていながら、まだ「買い出し」までは進んでいなかったが、少し原稿の年代を飛ばしてみるのもいいだろうと、勝手に解釈しているところだ。
今となっては、貴重な資料にもなり得ると考えている。
では、末夫さんの著書から、昭和十八年十月の「食糧豊かな楽園、三陸海岸の栗拾い」を転記してみよう。



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 徴用から帰って以来、もう一度東北の旅をしたいと思っていた私は、役所の将官の息子の話ではないが、来年はどうなるかわからないと思うと、旅への思いはいっそう募り、たとえ赤紙(召集令状)が来ても一週間ぐらいの余裕はあるのだから、四、五日の旅なら行けないことはないと考え、頭を丸坊主にし奉公袋も用意しておいて、この年の十月五日、憧れの三陸沿岸にと出かけたのである。

 三陸沿岸は戦時下の都会では考えることもできない食糧豊富な楽園だった。上野を前日の夜行で出た私は尻内(しりうち)駅で八戸線に乗り換え、久慈駅に着いたのが翌朝の八時ごろだった。久慈の街に一歩を印して、思わず目を見張ったのは、街全体が屋根にも庭にも栗の実がいっぱい干してあって、まるで栗に埋まっている街という感じがしたことだった。そのあまりの豊富さに、少しわけてもらって、駅から食糧に悩む東京へ送ってやろうかと考えて街の人に頼んでみたが、栗は買うものではなく拾うものだ、といってまったく取りあってくれない。聞くと、二日ほどまえにひどい嵐があって山は栗だらけだという。山に行くなら海沿いの道は嵐に荒らされていて危険だから、山沿いに栗を拾いながら行ったほうがいいと教えてくれた。

 天気はよく秋たけなわで三陸沿岸を宮古へ向かって歩き始めた。久慈の街を出ると、道は海に突き出した半島の低い峠を越えて野田の漁村にいたる。そこから十府ノ浦(じゅっぷのうら)という墨絵を見るような景勝の海岸が弓なりに続いていた。十府ノ浦の尽きるあたりに下安家(しもあつか)の漁村があり、安家川を渡ったところから、ふたたび山越えをして譜代の村に出るのだが、途中は街の人のいうとおり、山は栗でいっぱいだった。しかし、これからの長い旅を考えると、大変もったいないとは思いながら重い栗を背負って旅をすることはできないから、本気になって拾う気にはならなかったが、それでも一つ二つと拾っているうちにいつか一升近くになってしまい、途中、見晴らしのいいところで持って行った飯盒で栗を茹で、それを食べながら歩いたので昼飯の必要はないほどだった。

 道からはその左手眼下、はるかに広がる三陸の海が見え、その豪壮な姿は飽きることのない絶景の連続だった。譜代のあたりは松茸がよく採れるらしく、大きな籠いっぱい詰めて山から降りて来る老人によく行きあった。道が川を渡るところでは、やすを小脇にかかえた子供たちが、まだ増水している川面を睨みながら、産卵のため海から上ってくる鮭を追って、川上へと駆けていく姿を見かけたりした。

 嵐は豊富な食糧を置いて去ったが、その爪痕も大きく、山は崩れて道を塞ぎ、橋は流されていて、幾度も増水した川を渡渉させられた。点在する村落にも嵐はその爪痕を鋭く残し、三陸の海の秋の侘しさをいっそい際立たせていたが、どこも栗はいっぱいだった。

 私はその夜、譜代の村に一泊した。四方を山と海に隔てられたこの村には、いかにも僻遠の地らしい孤独さが漂っていた。宿の女中さんが、
「ここは松茸の名産地です」
 と教えてくれ、夕食には食べきれないほどの松茸料理に、もったいないほどの秋の味覚を楽しんだ。

 翌朝、女中さんに教えられて松茸採りの家を尋ねてみた。六十歳ぐらいの老人が出て来て、きのう山から採って来たばかりのみごとな松茸を二十本ほど土間に並べて見せてくれた。幹の太さが四センチもあり、なりが三十センチ近いものばかりだった。私は東京に持って帰ったらどんなに喜ばれるだろうと思うと、形を壊さずに持って帰る苦労も考えずに、長持ちしそうなのを十本ばかり買ってしまった。宿へ戻ってボール紙に雑草と一緒に詰め、リュックの上に結わえつけると案外持ちやすい。そして朝八時ごろに宿を出立した。このあたりも栗が村を埋めていた。村のはずれで橋の流された譜代川を渡ったが、増水はまだ引かず渡渉するのにずいぶん恐ろしい思いをした。道はここでふたたび山越えとなる。七ッ森の頂上近くを越えるが、たえず三陸海岸に波頭を眼下に望んで、まさにここも絶景の連続だった。

 三陸の旅で目につくのは白樺の林である。燃えるような草紅葉がその白さをひときわ際立たせ、そしてコスモスの花と野菊がいまをさかりの秋を華麗に飾っている。村落と村落の距離は長く、まったく人影を見ない。それがいっそう淋しさをさそった。

 栗はますます多くなる。見すごして通れなくて、やはり一つ一つと拾ってしまう。手に持ちきれなくなるとリュックに入れて、さらに拾いながら歩く。今日も途中で栗を茹で、食べながら歩いた。山を下るとそこは羅賀(らか)の漁村である。それまで遠くから見下ろしていた箱庭のような三陸の海が目前に広がり、白い波頭が牙をむいて岩を噛むさまが何とも豪快だった。私はこの日、その少し先の平井賀(ひらいが)という漁村の民宿に泊めてもらうことにした。

 宿の入口に立ったとき、そこの老夫婦は私が戦争に征っている一人息子に似ているといって喜んで迎えてくれた。そして夕食の膳には、いましがた海から獲ってきたばかりの新鮮な魚に松茸飯という山海の珍味で私を喜ばせてくれた。それにしても東京の食糧不足を思うと、この贅沢な料理に涙の出るような気がして、なかなか食べられない。

 その夜、リュックのなかに私がそれとなく拾い集めた栗を見た宿の老人は、栗を拾うなら明日は岩泉へ行ったほうがよい、途中の室場(むろば)は日本一栗の採れるところで、このへんの小学校もいま栗拾い休みで、みなそこへ行っていると教えてくれた。それを聞いて、こんなに栗の豊富なところへ来て、ただ海を見るだけで帰ってしまうのは東京に残っている人たちに何か申し訳ないような気がして、生きてさえいれば海はまた見に来られるだろうと、翌日は栗拾いを目的に岩泉へと山を越えることに予定を変更した。

 私は二階の窓によって海を見た。手の届きそうなところに海があった。沖は漁火ひとつない淋しい海だった。平井賀の漁村はその海になだれ落ちるような急傾斜に家がへばりついている。岸に打ち寄せる大きな波が、海辺に迫った家々の軒端を掠めるように白い飛沫を上げていた。知らぬ間に宿の老主人が私のそばに来て海を見ていた。
「私の息子もいまこの海の向こうで軍艦に乗っています」
 じっと海を見つめるその目には涙が光っていた。

 翌朝、老夫婦の読経の声に目を覚ます。毎朝こうして息子の無事と武運長久を祈ってお経をあげているという老夫婦の顔には必死の願いがこめられていた。一見、この平和に見える三陸にも戦争はその影をしっかりと落としていた。

 宿を出てからも親切な老人は村はずれまで私を送って室場へ行く道を教えてくれ、栗拾いに便利だからといって大きな袋まで持たせてくれた。道は平井川に沿って山を登って行く。白樺の林と草紅葉がここも美しかった。平波沢(ひらなみさわ)も栗に埋まっていた。進むにつれて栗は多くなり無尽蔵ともいえる豊富さに、だんだん贅沢になって、粒の大きいものだけを選んで拾うようになった。

 川がやがて細い流れとなって草のなかに消えるころ、道は前面の山の上に出た。そこはすばらしい高原だった。白樺の林が紅葉に映えて目に眩しく、はるかかなたに三陸の海が見下ろせた。平井賀の漁村の方向を望んで私は手を合わせ、老夫婦の息子さんが無事に帰って来ることを祈った。このあたりは牧場になっているとみえて、牧牛の草をはむ姿がその景観に詩情をそえていた。私は栗を茹で、昼飯を食べながら心ゆくまで高原のひとときを楽しんだ。

 室場はたしかに栗の都だった。溢れるような栗、栗、栗。栗のなかに村が埋まっているという感じがした。私はここの農家で一休みさせてもらったのだが、帰るとき農家のおかみさんは私の袋を見て少ないと思ったのか、五升ほど(約六キロ)の栗を無造作に入れてくれた。室場へ来るまでに一斗(約十二キロ)の栗は拾ったろう。もうこれ以上は持てないと思っていたのに、
「山の人は三斗持って帰るのがふつうだ」
 といって笑われた。
 いくら重くても、せっかく親切でくれたものを捨てる気にはなれない。大量の栗の重さに圧しつぶされるようにして、岩泉の街に着いたのは夕闇のおりはじめた火点しごろだった。薄闇のなかに見た岩泉の街は、ゆったりと落ち着いたなかにも、しっとりした古さが京都の街を思わせ、やさしい屋根の造りは信州の高原の街を感じさせた。その夜泊まった宿でお茶がわりに牛乳を出してくれたのもめずらしかった。さらに夕食には分厚いビフテキと鮎の塩焼きに鮪の刺身などが出て、三陸の旅は当時では考えられない豊かな味覚の旅だったのである。

 夜、女中さんに岩泉から小本(おもと)までバスのあることを教えられ、翌日は小本までバスで出ることにした。少しでも荷を軽くするために、栗五升を雨合羽や下着などと一緒に郵便局から東京へ送ることにし、荷づくりして宿に発送を頼んだ。私の泊まった襖一重隣の部屋には、数人の朝鮮人が泊まっていて、夜遅くまで声をひそめて何か話しこんでいたが、そのなかの一人が一晩中苦しそうに咳をするので、よく眠れなかった。

 翌朝、街はごたごたしていた。朝飯があまり遅いので帳場へ催促に行ってわかったのだが、彼らは病人だけをおいて逃げてしまったということだった。その病人は重い珪肺患者だという。この人はこれから先、異郷に一人取り残されて、どうやって生きていくのだろうと思うと、人ごとながら胸のつぶれる思いだった。

 小本まで通じているというバスは、行ってみるとトラックだった。荷台の上で荷物にしがみつくようにして乗って行くのだが、途中の小本川の秋の渓谷美を楽しむには、かえってこのほうがよかった。

 今日中に田老町まで出てしまおうと決めた私は、美しい小本の海を横目で眺めただけで素通りしてしまったが、道はすぐ前面の峠を越えると、ふたたび豪壮な三陸の海に出る。押し寄せる波頭は、海中に突出する大小の岩礁にぶつかると白い飛沫を上げて男性的な海岸風景をいっそう際立たせていた。

 貧しそうな茂師(もし)の漁村をすぎると、道はふたたび海と離れる。そして摂待(せったい)の村から再度山に登る。原地山(はらちやま)の裾を巻き、眼下にはたえずリアス式の入り組んだ三陸海岸を見下ろしながら歩く。白樺の林とまばらな松のある草の原が、海へ向かってなだれ落ちている。ここにも一人の人影もない。栗はここでも鈴なりだったが、時間がないので道なりに拾って歩く。道は幾度も谷を渡り山を越えてつぎの山へと続いていた。山の上は草原で牧場になっていて、無心に疾駆する牧馬の嘶く声を聞く。

 途中の開墾地の農家で遅い昼飯を食べる。ここでも土間には松茸がたくさんおいてあった。
「海岸のほうで今朝採って来たのです」
 といって、主人は二本ばかり焼いてご馳走してくれた。
 私はこの日、栗を五升ほど拾ったが、それ以上は重くて持ち歩けず、惜しいと思いつつ拾うのを止めてしまった。何度目かの山を越えたとき、山の上から眼下に田老の街が見えた。風に乗って甘く哀しい流行歌が流れて来る。「涙の渡り鳥」だ。この歌の好きな私は自分が歌の主人公にでもなったような気がして、一人旅の旅愁に一人で酔った。

 田老は、昭和八年の大津波で街が廃墟と化してしまったという。人々は以後、津波を恐れて街を海から巨大な防塞で仕切ってしまい、田老の街を歩いていると美しい海を失った淋しさがひしひしと感じられた。宿でも津波の恐ろしい話を聞く。
「せめて食事だけでも」
 と宿の主人は新鮮な魚料理を揃えて、海の見えなくなった無聊を慰めてくれた。

 夕食後、街を少し歩いてみる。大きな鉱山を郊外にひかえた田老町は、あらゆるがらくたを寄せ集めたような雑然とした街だったが、戦時下の活気だけは溢れていた。ここにはすでに東京では見かけなくなったカフェーがあり、白いエプロン姿の女給が入口に立っていたし、朝顔形の喇叭をつけた蓄音機がさかんに流行歌を流していて、一晩泊まるだけなのに大正時代に突然引き戻されたような思いを味わった。

 夜来の雨が朝になってもやまず、雨合羽は送ってしまったことでもあり、重い栗を背負って歩く苦痛を考えて逡巡していたとき、田老から宮古へ汽船が出ていることを知って、その船に乗ることにした。田老から約三時間、海からの秋雨に煙る三陸海岸の豪壮そのものの景観は、陸上から見るのとはまた異なった印象を与えてくれた。

 その日の午後、宮古から汽車で盛岡に出て、夜行で東京に帰ったのだが、旅行中、心配していた赤紙は来ていなかった。またこの旅で拾い集めた栗は二斗五升近くにもなって、約一ヶ月の食糧不足を補うことができた。

 < 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山はともだち」より抜粋 >



末夫さんが驚いた田老の巨大な防塞も、ギネスにも載った釜石の防潮堤も、今回の大津波ではまったく役に立たなかった。
文章を転記しながら思うのは、にわかボランティアとして訪れた被災地の惨状だ。
再建に意欲を燃やす人がいれば、家ばかりではなく、子供や孫たちの家族全員を失って、立ち直る気力のかけらも見い出せないお年寄りが大勢いる。
復興は、まず復旧へ向けてのマイナススタートであることを、痛いほど思い知らされた今回の災害。
そして、かつて暗い世相の戦時下であっても、三陸に生きる人々は、恵まれた海幸山幸の恵みによって、たくましく生きていたことを再認識した昭和十八年の文章。
それ故、3.11の惨状を目にした時の痛ましさは想像をはるかに越えていた。
人生観も変わった。
己の保身や、老後の心配ばかりしていたことを、私は激しく恥じた。
地理的にも資金的にも制約は受けるが、たとえ細々とでも、これからも支援は継続しなければいけないと考えている。
自由社会だから、さまざまな格差は仕方ないにしても、被災地と非被災地との格差は、もっと平均化されなければいけない。
そんな小さな常識が、まだ私にも残っていたことに気付いた。
くだいて言えば、私が人として死ぬまでにやらなければいけないことを見つけたということでもある。
金がない、時間がないなど、御身大切のエクスキューズを探すこともやめた。

生あるものが必ず息絶えると同様、地震は必ず来る、津波は必ず来る。
いずれ行政は、それに対応する施策を示すだろう。
だが、個人レベルまでそれを下ろすには限界がある。
今回、まったく縁もゆかりもない人たちと知り合った。
知り合い、話を聞き、語り合って見えて来たものもある。
末夫さんが体現した豊饒の三陸が、再び一日でも早く甦るように、これからの新たな未来を死ぬまで見守っていこうと思う。

(太田)



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