田代平から七時雨山縦走


今までにも再三お断りしたことだが、当方の都合で、時代は目まぐるしく前後する。
今回アップするのは昭和11年、東北岩手の田代平から七時雨山を縦走した時の記録である。
これも、当時の旅雑誌や登山誌への投稿を目的として書かれたものだ。
コースを丁寧に記載して、後に続くかも知れない未知の読者の便を考えているのはいつものこと。
それでもこの山行は、そんな簡単なものではなかった。
相変わらず読みづらい本文なので以下へ転記する。
長文だが、時間があれば、先ずはこの原本の写しから読んで頂きたい。


此のコースは各れよりするもよい。今新屋新町より東北本線中山に到るコースの概略を記してみる。
盛岡を一番で出発すると新屋新町駅へは七時頃に着く。
それより津軽街道を五日市迄歩く。
ここで右に安比川に沿って鹿角街道を進み、日影の部落をへて約5丁ほど進み、右の山道を登るので有る。
此の分岐点には別に人家はないが、完全な指導標が有るから迷ふ心配はない。
道はすぐ繋沢の部落に着く。
これより人家はまったくなくなり、七時雨山左側の谷合を進むのである。
前方に七時雨山が聳えて居り、附近は東北特有の緩な草原帯で、其の中に所々樹林が配置せられ実に気持がよく、景色がよい。
途中で湯ノ沢道と合する。
此の道は新屋新町へ通じて居り、新屋新町より此の道を径て来た方が五日市経由より近いが、迷ひやすいから止した方がよい。
道は途中で数回渓流を渡ったり、放牧場の柵を径たりして緩に登って行くので有る。
此の道は三尺巾くらいの大きな道であるが、雨の後などは非常に道が悪いから、よく注意しないと身中どろだらけになってしまう。
道が此の草原帯を上り切ると、そこはずっと柵の通っている七時雨山から田代山に挟まれた一大草原が緩に展開されているのが見られる。
其の広大なる草原の美しさ何と云って良いか、東北の持つ明朗なる高原美を余す所なく発揮している様で有る。
七時雨山、田代山の緩な裾野、其の中に草喰む牧馬の群、そしてそこは人間文化の何物をも求めることの出来ない、未だ世に知られない東北の仙境で有る。
此處は田代平と云ひ、新屋新町附近の馬の持主が組合を作って、毎年初春ここへ馬を連れて来て自然の成長をなさしめ、晩秋再び里へ連れかへるそうで有る。
此こには二三馬小舎が有るのみで人家はない。
然し此の附近に多くの炭焼小屋が有って、一年中炭焼が住んでいる。
田代平は左右に七時雨山、田代山を主峰とし、周囲を緩な山に囲まれた盆地の様な地形をなしている。
七時雨山はすぐ前面に聳え、中腹以上は雑木林帯で有る。
道は全くないから附近の炭焼に案内してもらうのがよい。
往復に時間も有れば充分で、雑木雑草の中を歩まねばならない。
海抜千余米の頂上に立てば、岩手山をはじめ、早池峰山、姫神山より背後に八幡平、秋田駒等を望見し得る。
其の眺望は実によい。
目下には牧馬の馳驅する田代平の高原を望むなど、東北ならでは味へぬ境地で有る。
一方、七時雨山は新屋新町より車ノ走峠へ出で、それより登ることも出来るが、やはり道はないから案内人を必要とする。
それより、この田代平へ出る縦走は更に興味が有るだろう。
田代平には別に休むような家もないから、炭焼小屋へでも入れてもらうより仕方がない。
下山道は沼宮内と奥中山との二方面に通じている。
中山へ到る方が近く、約三里で有る。
道は途中で相当分岐が有るから、よく注意して行く必要が有る。
主として左へ大きな道へ進めばよい。
途中は全く人家なく、時々存在する森林の他、たゞ北満の広野を行く様な淋しい草原の丘を上下して行くのみで有る。
あの物静なる草の丘の上を歩いて行く気分はとても素晴しいもので、とても関東地方などでは味はう事は出来ないで有ろう。
田代平より中山へ到る間は陸軍の用地で、牧馬地帯となっていて、所々に牧場の柵が囲らされている。
途中で道は二本に分れるから(どちらを取っても下れる)、それを右へ取って下った方が近い。
沼宮内の方面へ下る途は、頂上付近より右へ谷合を下るので、中山へ下るより道程ははるかに長い。



画像

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謂わば、以上がオフィシャルの記録である。
「北満の広野を行く様な淋しい草原の丘」とあるが、これはあくまでも末夫さん自身のイメージであり、彼は満州に渡ったことはない。
次にこの山行の本当の姿、現実を示そう。
ポイントは、上記でたびたび書かれている「炭焼」や炭焼小屋」である。


 私は地図を見るのが好きで、低い山だが、ひときわ魁偉な山容を示す岩手県の七時雨山(1,060メートル)にかねてから登ってみたいと思っていた。
昭和十一年の登り納めのつもりで十月二十一日から二十三日にかけて夜行日帰りで出かけた。東北本線の好摩駅から花輪線に乗り換え、荒屋新町で下車し、七時雨山を越えて東北本線の奥中山駅へと縦走した。この山は古い火山で海抜も千メートル強だが、その北方の西岳に馬蹄形の火山壁が連なっており、そのなかが田代平といわれる火口原で、すばらしい高原が想像された。天気が少し悪かったが、せっかく東京から出て来たのだし、低い山だからとたかをくくって登りだした。外輪山に登ると、田代平の高原は覚めるような紅葉に埋まっている。私は歓喜して、いったん火口原に駆け下り、そこから頂上に見える本山に登り始めた。別に道はなく、雑草と疎林のなかを悪戦苦闘したが、案外簡単に山頂の一等三角点に着いた。

 しかし、このとき先ほどから降っていた霧雨が急に雪にかわった。私は頂上の展望を諦めて急いで下山を始めた。が、瞬く間に吹雪となる。低い山だし、雪になるとは夢にも思わなかったから、何の用意もしていなかった。火口原までやっと下りたときには一面の雪原となり、登ってきた道はおろか、何もわからない。にわか雪だからそのうちにやむだろうと、しばらく木の陰に休んでようすを見ることにしたが、雪はいっこうにやまず、体は雪で真っ白になり、たちまち寒さで凍えそうになった。目の前も真っ白になり、いままで歩いて来た足跡もすべて雪の下に隠れてしまって、引き返そうにも方角さえわからない。

 道に迷ったときの山中での恐ろしさは、死が目のまえに立ちはだかったといっても決して誇張ではなく、いいようのないほどだった。ぐずぐずしていたら凍え死んでしまう。雪面のわずかな凹みがダラダラと山を下っているのを見て、そこが道だろうと判断してその凹みについて下って行った。吹雪はだんだんひどくなって、見る見るうちに積もった大雪は歩く自由を奪い、幾度も幾度も引っくり返った。そのうちに凹みもわからなくなり、ただ斜面の上に背の低い柏の木が雪を被って怪しげな雪女郎の姿となって点々と立っている。その森閑とした静けさはいかにも人里離れた山の深さを感じさせ、とても助かる見込みはないと思われた。とにかく少しでも早く山を下りることだと、歩きにくい雪の高原の斜面をこけつまろびつ必死になって下へ下へとくだって行った。

 そのときの絶望と恐怖はとうてい口ではいいあらわせない。私は幾度も転んで、見るも無惨な姿になったが、しばらく雪の上に腰を下ろして息を休ませた。そのとき、無意識のうちに「助けてくれ!」と大声で助けを求めていたのだろうか。「オッ」という声が返ってきたように思う。私は夢中になってその声のあったほうへと雪面を這って進んだ。向こうでも探しに来たのか途中で老人に行き会った。

 その人に抱えられて着いた先は炭焼小屋だった。温かい釜のまえで、どうやら助かったと思うと生きている喜びがひしひしと胸に迫って来た。一時間ばかり体を温めていると、急に空腹を感じて、持ってきた握り飯を食べられるまでに回復した。体が温まると若いせいか、すぐまた元気になった。体がもとに戻ったので、炭焼きの老人に頼んで日当(一円だったと思う)を払い、奥中山の駅まで案内してもらうことにした。その道はもう一つ大きな峠を越え、かぎりなく広がる大平原の、柏の木が点在するなかを、どこまでもどこまでも雪原を下って続いていた。雪はまったく道を隠し、案内がなかったら、とうてい帰ることはできないほどだった。

 炭焼きの老人はいった。田代平というところは木炭の生産地で、ほうぼうに炭焼小屋があり、少し大きな声で叫べばもっと早く助かったのに、と。老人は雪でも歩くのは速かったが、私は雪の歩きにくさにへとへとになった。信号所に毛の生えたような奥中山の淋しい駅にたどりついたのは夕方四時ごろだったろうか。駅前の老人の知り合いの家で一休みさせてもらい、その日の夜行で東京へ帰って来たが、東北の十月はもう冬であり、その雪の恐ろしさだけはしみじみと身に徹えた。十月になったら東北の山へは行かないほうがいいとそのとき思った。

< 思草社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 >


普通ならば、次回挑戦するときはしっかり装備を整えようと思ったり、天気図を読む訓練を始めたりするものだが、「十月になったら東北の山へは行かないほうがいいとそのとき思った」と書いているので、当時はトラウマにも近い恐怖を感じて、気持ちが萎えてしまったのだろう。
結局無事に下山しているので、こちらは安心して読めるのだが、やはり、建前よりも本音が吐露されている 「汽車が好き、山は友だち」の方が面白い。
いずれにせよ、昭和11年当時の東北地方の炭焼きの話など、今では貴重な記録といっていい。(太田)



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この記事へのコメント

隠居じじい佐竹
2009年10月13日 13:25
幾つかの記録を拝見しましたが、こうして文字に起こして頂けると分かりやすくて助かります。かつて小生も訊ねた山や土地があり、それが懐かしく、また現代に於いてはとても貴重な資料だと思います。
大変なご苦労と想像しますが、可能ならばこのスタイルでお願いしたく存じます。
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