足利~東京間を十九時間で歩く


 私は幸か不幸か丙種合格で、兵隊には無関係だったが、非常時という言葉が日常用語になった昭和十一年、これからさき世の中がどうなるかわからないと思うと、いざとなったら十里(約四〇キロ)や二十里は歩ける足腰にしておきたかった。そこで足利-東京間(八五キロ)を昼夜兼行で歩けるかどうか試してみようと思い立った。
 そのことを役所の先輩たちに話すと、いまどきそんな馬鹿なことができるものかと一笑に付された。このころは ※ 現在のようにスポーツがさかんではなかったし、栃木県の足利から歩いて来る者など一人もいなかった。先輩のなかには二十時間で歩けたら五円出すという人もいた。

< 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 >

(※ 現在とは、民主党中心の鳩山政権が発足した今ではなく、本にするために末夫さんが原稿をまとめていた平成のはじめ頃のことです)


末夫さん、あなた何て無謀なこと考えついたの? とツッコミを入れてみたくなるが、本文の通り、そういうご時世だったのだろう。
それでも、当時そんなことを思いつく人が多くいたとも思えず、あくまで個人的な趣味と思い入れだと推量する。
とはいっても、私だって学生時代は徒歩で山手線を一周したこともあるから、その心情は判らぬでもない。
ただし、それはヒマを持て余していた季節の「若気の至り」であって、同列にすべきことではない。
記事とは関係ない話で恐縮だが、深夜の新橋から反時計回りでチンタラ歩き出し、駅ごとに証拠写真を撮ったり買い食いをしたりの連続だったから、35キロ弱の距離を一周するのに半日以上を要した記憶がある。
池袋などの主要駅では通勤の人の波をぼんやり眺め、「オレ、何やってんだろ」とシミジミ落ち込んだ。
閑話休題。
私とは心構えから違う末夫さんに話を戻そう。


昭和12年6月12日深夜、上野発の最終足利行き列車に乗り込んだ末夫さんは、途中の小山で駅弁を買って腹を満たし、午後11時前に足利駅前に降り立った。
事前の机上計算では桐生から歩くつもりだったようだ。
桐生からだと100キロを超える行程になる。
大変な意気込みである。
ずっと下に原稿を載せるが、末夫さんの計算では101キロらしい。
それでも、実際は距離的にキリの良い桐生からのスタートを断念しているので、まずは小手調べといった今回の計画なのだろう。
では、末夫さんの一日を追って行こう。

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上のスタンプは小山駅に常備してあったものだろう。
駅弁を買ったついでに押印したものだ。
デザインは、筑波山と鬼怒川の鮎の取り合わせだろうか。
いや、鬼怒川は小山からは少々遠い。
ならば鹿沼方面から流れ下る思川か。
思川は小山城の西の防御の役割を担っていた。
小山は、福島正則の小山評定で有名な舞台でもある。
歴史好きの末夫さんならば触れずにはいられない土地だと思うのだが、何故か記載はない。
当然ながら、小山遊園地もまだ無い。


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午後11時を待って、末夫さんは東京へ向けて歩き始める。
別に待たなくてもいいと思うのだが、後々の通過時刻や所要時間を判りやすくするための配慮だったようだ。


 外は霧雨が降っていて、これから東京まで歩いて帰れるかちょっと心細かった。駅を出て、すぐ渡良瀬川を渡ったところで道が二手にわかれる。そこで提灯に火を入れ、油紙で作った合羽を着て一休みしていると、すぐ後ろの家の高窓から女の声で、
「お兄さん、この雨の中をどこへ行こうというのさ。このへんでうろうろしていると、悪い狐に化かされるよ」
 と、しつこくいわれた。私はそれを聞くと、「ははあ、ここは遊郭だな」と思った。その途端、これから体力増強という神聖(?)な旅をしようとしているのに、出鼻を挫かれた思いがして、無性に腹立たしくなり、負けずに口汚く罵ってそこを出発した。

< 同 抜粋 >


女性とどのような会話があったのか判らないが、「口汚く罵って」の部分が気になる。
インバ○、バ○タ、などと言い返したのだろうか。
負けん気や鼻っ柱の強い、末夫さんの面目躍如である。
足利ならば、私は森高千里や足利事件に触れたくなるのだが、時代が違うので如何ともし難い。
足利学校や孔子廟、儒学など、末夫さんならば語りたい事柄は数多くあるはずなのに、それらをスルーして、いわゆる下世話ネタを載せたのは、気軽に読んで貰おうとの配慮か。


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 足利-熊谷間はとても草深い田舎道だった。とくに太田までの道は心細さを誘う松林が黒々と続き、外灯も人家もほとんどなかった。右手に金山が続くあたりに来ると、その淋しさはひとしおで、強盗でもいいから人に会いたいと思うほどだった。すると、行手に提灯が二つ、ゆらゆらと揺れているのが見えた。宴会帰りの酔っ払いが歩いているようでもあり、人恋しさのあまり駈け出して追いつこうとしたのだが、どうしても追いつけない。そのうちにその火が薄ぼんやりとした火の玉となって目の前にちらついた。はっとして目をこすって、もう一度見直すと、火は遠くのほうでこれまで通りに揺らめいているのだった。
< 同 抜粋 >


妄想は更なる妄想を呼ぶものだが、昭和12年当時のこの辺りを想像すれば、そんな思いも一笑に付すわけにはいかない。
淡い灯りの提灯ひとつで、墨を流したような夜の田舎道を独り歩いていたのである。
なおかつ、梅雨の時期ということもあって、霧雨も視界をおぼろにしていた。
見えないものが見えたり、逆にそれが実際に前を歩く人の提灯であったとしても、怖さは膨らんでいく。
得てして、人間が感じる恐怖とはそういうものだ。
もっとも、現代で一番怖いのは人間であるが、当時の感覚はまた違ったものだったのだろう。

ひたひたと迫る足音に振り返ると、末夫さんの持つ提灯が揺らめいている。
酔漢もたまげたに違いない。
何しろ誰も歩いていないはずのこんな時間に、提灯が駆け足で追って来るのである。
追われなければならない心当たりもなければ、末夫さんの心情など判ろうはずもない。
可哀想に、心地良くふらふら歩いていたのに、酔いも一瞬で醒めてしまっただろう。
それでも末夫さんの記述は続く。


 私の母は、この金山の近くの成塚の生まれだが、よく子供のころ狐の嫁入りといって、火の玉の行列を見たと話していた。私はそれを思い出して、とても薄気味悪かった。その火の玉は遠くなったり近くなったりしていたが、やがて太田の街の入口の近くで左の方へ曲がっていった。私も火の玉について曲がろうとしたとき、目の前に大きな水溜りができていて、はっとして立ち止まったのだが、その一瞬、火の玉は見えなくなってしまった。
< 同 抜粋 >


追って来る末夫さんからやっと逃れることが出来て、酔漢は本当にホッとしたことだろう。
末夫さん以上に怖い思いをしたことは想像に難くない。
理不尽な出来事に身も凍ったはずだ。
しっかり戸締りをしてから眠ったのだろうが、送り狼の悪夢にうなされた目覚めだったに違いない。
一方、末夫さんは、やっと一人の人間に出会う。


 逃げるように太田の街を駆け抜け、ふたたび淋しい道にさしかかったとき、傍らの人家の横から懐中電灯を照らした人相の悪い大男が出て来て私に「待て」と声をかける。私はてっきり強盗かと思ったが、相手が人間だとわかると、不思議に恐怖は湧かなかった。
< 同 抜粋 >


人間じゃない強盗なんているのか?
「強盗でもいいから人に会いたい」と思いながら、末夫さんはやはり強盗が怖かったのだ。
このあたりは支離滅裂で、読み手も混乱するところだが、構わずに続ける。


 その人は刑事だった。「この夜更けにどこへ行く」とさんざん調べられた。私は体力増強のために足利-東京間の一日走破をしているのだといって、途中の郵便局でもらった通過時間証明のスタンプ帳を見せると、じっと見入っていたが、さも感心したように、「偉いな」といって、私の肩を叩いて誉めてくれた。
 私はその刑事にさっき見た火の玉の話をすると、このへんには悪い狐が出て人をからかうけれど、相手にしなければ大丈夫と、まじめな顔をして教えてくれた。刑事は腕時計を見て、狐が出るのは一時ごろで、もうすぐ二時になるからこの先は心配しなくてもいいといってくれた。そんな馬鹿なことがあるものかと思ったが、不思議なことがあったあとなので、まるっきり嘘とも思えなかった。

< 同 抜粋 >


「まるっきり嘘とも思えなかった」と語るには訳があり、末夫さんは昭和6年に、お稲荷様の化身と対面している。


 太田をすぎると、しばらくして利根川を渡る。橋は淋しい木橋で、外灯ひとつなく、こんな夜更けに歩いている人がいるはずもない。さっきの狐のこともあるし、こんどは川のなかからカッパが出てきて川に引き摺りこまれるんじゃないかと、びくつきながら長い橋を駆けて渡った。川を渡り、妻沼町に入るあたりで霧雨がやんだ。
< 同 抜粋 >


狐の次は河童に怯えたりと忙しいが、足利を午後11時に出て太田着が0時40分。
そして妻沼に入ったのが午前2時10分である。
まずまずの行程だろう。
夜明けまではまだ時間がある。
末夫さんはここでまた人間と出会う。


 妻沼町をすぎ、ふたたび田畑のなかの淋しい道に入るころ、屈強な男が自転車にリヤカーを引いてやって来た。今日初めて見る人間のような気がした。リヤカーには若い女の子が頭から風呂敷をかぶって俯いて乗っていた。何やら哀れを誘う。私はふと昨日の遊女のことを思い出し、からかわれたと思って口汚く怒鳴り返したが、これまでの一連の不思議なことを思うと、彼女は親切から注意してくれたのかもしれず、怒鳴りつけたことをちょっぴり後悔した。
< 同 抜粋 >


ちょっぴりではなく、大いに後悔しなければいけないだろう。
読んでるコチラは、てっきり彼女が、「お兄さん、遊んでいかない?」とでも言ったのかと思っていた。
末夫さんの明らかな過剰反応だ。
それもこれも、ウブで潔癖な末夫さんらしい振舞いではある。


 熊谷の街が見えるころ、ようやく空が白みかけてきた。私は提灯を肩にかついで、そのころはやりの「流転」という唄を歌いながら、明け方の熊谷の街に入った。恐怖を克服した何ともいえぬ壮快な気分がみなぎっていた。
< 同 抜粋 >


本人は「恐怖を克服」とか「壮快な気分」などと書くが、酔っ払いを驚かせたり、刑事に驚かされたり、コチラはちょっとした落語を聞かされた気分になる。
熊谷到着は4時20分。
末夫さんはここで10分の休憩をとった。
熊谷のスタンプは駅備え付けのものだろう。
郵便局がこの時間に開いているはずはないだろうから、切手は後で添付したようだ。


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鴻巣着は朝の7時30分。
以後、律儀に郵便局へ立ち寄って切手を購入、スタンプを押して貰っている。
ここからは中山道に合流して、一路、東京を目指す。


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大宮には午後の12時20分に到着した。
ここまでは空腹も感じることなく、飲まず食わずで歩き通している。
ところが、大宮を過ぎると急に疲れが出たらしく、無性に甘いものが食べたくなって、途中の茶屋で蜜豆を四杯食べている。
でも四杯ってどうなんだろう。
普通は恥ずかしくて、立て続けに注文なんて出来ません。
ここまで読み進めて来たけど、妙なところで感心してしまった。
店の人からは好奇な目で見られたに違いないと思うが、そんなことを気にしないのが末夫さんのスゴイところだ。
このDNAは息子にも受け継がれているように感じるのは私だけか…。


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浦和着、午後2時20分。
蕨着、3時30分。
あともうひと頑張りで東京へ入る。
もっとも、この時にゴールと決めていたのは板橋の市電停留所で、戸田橋を渡り、最後の志村の坂は這うようにして越えている。
板橋の市電停留所着、午後5時49分。
こうして長い徒歩旅行が終わった。
翌日は疲れもなく普段通りに仕事に出ているので、今回、足腰にはずいぶん自信を持ったようだ。
この二週間後、末夫さんはまた徒歩旅行に出る。

陸前浜街道ハイキング 第一回 牛久迄」へ続く。


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本に掲載するにあたり、道中のスタンプをまとめたもの。
これが原版になっている。


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今までの記事に倣えば原稿の写真を真っ先にアップするところだが、この頃から紙の入手が困難になったのか、藁半紙に鉛筆書きが目立つようになる。
一応、以下に載せるが、紙質の劣化だけでなく、文章の判読も難しい部分が多くなる。
しかし、内容は上記とほぼ同じである。(太田)



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この記事へのコメント

秋刀魚童子
2009年09月22日 09:27
末夫さんの文章もさることながら、N様のコメントの
キレにも流石だなぁとうなってしまいます。
末夫さんのDNAはさらにパワーアップして、Y氏に
受け継がれた事は間違いないと私も思います。
管理UNION
2009年09月26日 00:08
世界中から完全に駆逐されたと思っていたケミカルウォッシュのジーンズで、堂々と新宿を闊歩する姿には凛々しさがありました。
末夫さんの健脚と、グラフ作成などの几帳面さには毎回驚かされます。
本文にも書きましたが、如何せん紙質が悪いので、要約と本からの引用でゴマカシました。残念です。