昭和十二年


今回の記事で記念すべき100回目のエントリーになる(たぶん)のだが、記念といっても、花を飾ったりケーキにローソクを立てたり、Mロードで提灯行列をしたりなどの特別な記念行事はせず、いつも通り淡々と進めていく。

さて、時代は戦前の昭和で停滞したまま、当ブログは遅々として進まない。
それもこれも、すべて忙しさを口実にできるのだが、言い訳を綴っても仕方ないから始めよう。

時代は昭和12年である。
正月に成田山新勝寺、別格官幣社小御門神社、官幣大社香取神宮に詣で、平和と戦勝祈願を済ませた末夫青年は自転車を買った。
中古の実用車、値段は16円だった。
当時の16円が現在の貨幣価値でいくらになるのか判らないが、通勤や郊外への出張で使い、その浮いた交通費を計算すると、どうやら半年で元を取ったようだ。
購入早々、試運転のつもりで大宮ー岩槻ー春日部をめぐり、もちろん彼のことだから、途中の名所旧跡も見物して帰宅してみると、今までの徒歩旅行ならば二日は費やさなければならなかった行程を半日で消化できたことに大満足だった。
その後は北関東を中心に、暇さえあればサイクリングを楽しんだ。
未練を残していた大学受験をきっぱりあきらめ、東京府の営繕監督員の仕事を続ける意思を固めたのもこの頃だ。
数年来の不況は回復傾向だったが、末夫青年は堅実な道を選択した。
時代はどうだったろうか。
広田内閣が総辞職した後に政党人を排除した林陸軍大将を首相とした内閣が出現、しかし総選挙の敗北で林首相は退陣、国内相克一掃をスローガンに掲げた第一次近衛内閣が誕生した。
それでも軍部は強硬路線を突っ走り、ついには盧溝橋事件を起こすに至った。
日中戦争勃発。
悪夢の泥沼へ、本格的に踏み出した一歩だった。
末夫青年は次のように記す。


日本が南京に迫ると、気の早い人は大陸はもうすぐ日本のものになるかのように錯覚した。役所でも安月給の先輩たちが一攫千金を夢みて、大陸へ、軍需産業へと転職して行く人が多かった。職員のひきとめ策として、毎年二円ずつ上がっていた月給が、この年は二度も上がって私も三十八円の月給取りになった。単純な私はこうなると、大学へ入るために役所を辞めなくてよかったと思うようになり、これから先、世の中がどうなるかわからないから、もう少しはっきりするまで、役所にじっとしているのが一番と自分にいいきかせた。
< 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 >


後に「昭和の三大馬鹿査定」といわれた戦艦大和建造に着手したのも、この年のことだ。
末路はご存知の通り。
もったいないことである。

また、尽忠報国、挙国一致、堅忍持久などの、いわゆる強力に自己犠牲を求める滅私奉公を推進した「国民精神総動員政策」も昭和12年のことだ。
早い話が大政翼賛。
要するに、お前ら、お国の言うことに逆らったらダメだかんな、とマインドコントロールし、戦意昂揚を煽ったのである。
「欲しがりませぬ勝つまでは」
「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」
「石油の一滴は血の一滴」
戦争を知らなくても、誰もが聞いたことのあるスローガンだ。
(おそらく、今もどこぞのご近所で、マジで使われてるんだろうね)
「ぜいたくは敵だ」
などは、「ぜいたくは素敵だ」といたずら書きされたらしいから、挙国一致とはいいながら、反骨精神を持った人も少なからずいたのだろう。
「パーマネントはやめませう」の合言葉も有名である。
どこからか、「パーマかけるだけの髪が欲しい」とツッこむ声も聞こえるが、それは無視する。

画像

< 画像出典を明記せよ、ということなのでリンクしておく。こちらです→ Wikipedia >


激動の年、世界を見渡せばさまざまな出来事が起きている。
中でも衝撃だったのが、アメリカ合衆国ニュージャージー州レイクハースト海軍飛行場での、飛行船ヒンデンブルグ号の大惨事だ。

末夫さんは一切触れていないが、昭和4年、後にヒンデンブルグ号が爆発事故を起こしたレイクハーストから出発し、世界1周の途中に土浦の海軍航空隊霞ヶ浦飛行場(現陸自霞ヶ浦駐屯地)に飛来したツェッペリン号は、当時大きな話題になった。
どうも乗り物に関しては、汽車と自転車以外には関心が無かったのだろう。
国内ではヘレン・ケラーが来日し、永井荷風の「墨東奇譚」が発表され、欧州ではスターリンの粛清、ナチス・ドイツ空軍がゲルニカを空襲している。
年末には、現在も歴史認識で揺れる南京大虐殺があったとされる昭和12年だった。


私はこの年の夏、八王子にある染色試験所の増築工事の監督を命ぜられた。谷中(上野)の私の家から八王子まで、途中、休憩を入れても三時間はかからなかった。一週間に三回ぐらい出張するのだが、朝六時に家を出て、新宿から甲州街道を一気に走り、途中でタイコ焼きを買って日野橋で多摩川の河原におりて食べながら、川の向こうに富士、丹沢、奥多摩、秩父の山波(並)を見ていると、それはしみじみとした楽しい旅のひとときといえた。このころ八王子まで出張すると電車賃だけでも片道七十銭かかり、一ヶ月分の旅費は月給とかわらなかった。またこれから始まる戦中戦後の食糧難にさいして、この自転車は買い出しの有力な武器として、私たち一家を飢餓から救ってくれることになる。
< 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 >


これからも当ブログは続くのだが、すでにご承知の通り、末夫さんの原稿は見にくいし、おそらくほとんどの方が原文を読んでいないだろう。
こちらもそれは重々承知している。
だから本来ならば原文を転記すべきなのだろうが、それを始めると日々の生活が立ち行かなくなる。
それはお判り頂けるだろう。
そこで、毎度こうした駄文でごまかすことになる。
本来の目的は、末夫さん渾身の力作である「汽車が好き、山は友だち」を、より多くの方々に知ってもらうことにある。
その辺りの工夫が難しいし、まだまだ試行錯誤を重ねる必要がある。
だから、タイトルの「旅と山登りと買い出しと」の「買い出し」まで進むには、今しばらくのご猶予を願いたい。
こちらで勝手に面白がっているだけかも知れないが、ウブな末夫さんの戦中の初恋譚や、戦後の買い出しの話がとにかく面白いんだもんね、とずいぶん先の前フリをして、今回は終わることにする。(太田)



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この記事へのコメント

なると
2010年06月13日 13:33
自転車、いいですね。
昭和12年は私の生まれた年なもので・・ 

時代は変わって終戦後の開拓生活のときですが、自転車が公務員の初任給より高いので高校へ行くとき中古を買ってもらいました。嬉しくて一生懸命に磨いたら塗ってあっただけの銀粉が剥げ落ちて錆びだらけに戻ってがっかり。4時起きで収穫した野菜や果物などを積んで10キロ離れた市場へ。前日の清算を済ませ高校まで8キロと毎日30キロ近くの山坂。おかげで足腰が丈夫になりました。

早朝に相模原の家を出て富士の二合目に自転車をデポし、山頂を往復して深夜になんとか帰宅することが出来ました。200キロ近い走行でしたが当時(40年ほど前)は道は悪くても車も少なく安心して走ることが出来ました。

今でも車に自転車を積んで田舎道を愉しんでいます。

 6月2日にお世話になったものです。

ハセガワ
2010年06月15日 20:23
 末夫さんは中学になった兄を連れてイワキの小名浜で魚の行商をやろうという彼のひとつ上の兄(伯父)に実用自転車を漕いで東京を出たのを覚えています。兄の話では自転車を漕ぐ時いつも跨いでから漕ぎ出したと話しました。あんまり上手い乗り手ではなかったといいました。そしてよく転んだと。
 本によると如何にも颯爽と走ったようですが自転車も60になって取った自動車の運転も下手でした。でもひとりでどこにへも行ける乗り物にはことのほか好奇心がありました。それは亡くなるまででした。

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