川越街道 平林寺ハイキング


数年前の某日、車で平林寺を訪ねた。
駐車場を探して寺域を一周したが、結局、総門前の民間駐車場しかなかった。
500円を徴収された。
都心の一等地並みの金額である。
そして寺の拝観料が300円。
300円…。
まあそれだけの価値はあった。
四周を道路に囲まれ、多くのトラックが行き交う喧噪をよそに、武蔵野の面影を色濃く残す広い境内は散策に良い場所だ。
梅や桜はもちろん、クヌギやコナラの雑木林の中に野火止用水が流れ、四季を通じて楽しめる。
ただしアクセスは悪い。
一番近い鉄道はJR武蔵野線の新座駅。
もちろんバスは通じているが、駅から歩けば30分を要してしまう。
関越道が開通して一時期交通量は減ったが、川越街道(別称サツマイモ街道)の渋滞も相変わらずだ。

さて、武蔵野といえば独歩である。
この掌編は明治期を代表する自然文学の秀作として誰もが知っている。
独歩の定義する武蔵野とはどこか。
作品中に、友人から届いた書簡として書かれてあるので引用してみよう。

僕は武蔵野は先ず雑司谷から起って線を引いて見ると、それから板橋の中仙道の西側を通って川越近傍まで達し、君の一篇に示された入間郡を包んで円く甲武線の立川に来る。この範囲の間に所沢、田無などいう駅がどんなに趣味が多いか…

こうしてみると、平林寺はほぼその中心に収まっている。
明治30年前後、独歩が渋谷村と呼ばれていた現渋谷に居を構えていた当時のことである。

さて、下の末夫さんのスケッチだが、松平定信の墓とあるのはケアレスミス。
これは知恵伊豆と呼ばれた川越藩主、松平伊豆守信綱公のものである。
生原稿にもそう明記してある。
(ちなみに松平定信の墓は、東京江東区深川の霊厳寺にある)
三代将軍家光の引きで出世街道を突き進んだ信綱は、島原の乱を平定したことでも知られている。
家光死後は四代家綱に仕えることになるのだが、この時期に由井正雪の乱や明暦の大火などを処理している。
佐倉宗吾の直訴(籠訴)も同時代のことである。

末夫さんも最後に記しているが、平林寺は今も紅葉が有名で、秋も深まった11月後半に人が集中するようだ。
晩秋の一日、ぜひ訪ねたい古刹の禅寺である。
また、野火止用水に沿って散策を続けたいところだが、近年整備されて部分的に遊歩道は完成しているものの、すぐ横に交通量の多い市道などが並行しており、宅地開発も進んであまり食指は動かない。
いずれにしても交通の便は悪い。

末夫さんの行程を見ると、平林寺を後に、真っ直ぐに東久留米駅へ向かっている。
玉川上水から分水された野火止用水をたどるのであれば、帰路は東久留米駅よりひとつ西の清瀬駅が近い。
昭和初期の時代といっても、すでに生活排水が流れ込み、さほど観るべき価値を認めなかったのだろうか。
こればかりは末夫さん本人に訊いてみなければ判らない。
知恵伊豆信綱の発案により開削された300年前は飲料水や生活用水、そして農業用水として利用されて広範囲の大地を潤していた。
現在の野火止用水は、生活排水を二次処理した流れだと聞く。
渋谷村が都内屈指の繁華街へと変貌したように、用水も時代を浮かべていずこかへ流れ行くということか。

末夫さんが訪れた昭和10年11月23日は曇りのち雨とあるが、一面に広がる武蔵野の田園を絹のような雨の幕が包み、そこに紅葉の朱が融け込む風情は、想像するだけで幻想的である。(太田)



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この記事へのコメント

知恵熱
2008年08月17日 23:40
田無(たなし)市は保谷(ほうや)市と2001年に合併し、現在は西東京市となっています。
東京の人間なら田無市は簡単に読めますが、知らない人は誰もが必ず「たむし」と読んでしまいます。
関東圏では北習志野(汚らしいの)と良い勝負をしてました。
その恥辱、屈辱の反動か、西「東京」市と大きく出たのでしょう。
平成の大合併は、日陰の道を歩んでいた市民をトラウマから解放しました。
水田が無く畑ばかりだったことから付いた地名の由来も、こうして消えていくのです。