江戸川堤の櫻


ここの桜は当時、墨堤よりも有名だったらしい。
江戸川とは言わず、「小利根」と呼ぶのが一般的なようだ。
大正後期に発表された田山花袋の「東京近郊 一日の行楽」には次のように記されている。
少々長くなるが書き写してみよう。
末夫さんが歩いた約十年前の描写である。

京成電車の支線は、高砂から帝釈に行って、もとの人車鉄道のあった線を通って、常磐線の金町駅に連絡している。従って今は帝釈天に参詣するには、何方から行っても土をふまずに楽に行けるようになっている。しかし、この金町の停車場から帝釈天に行く道はちょっと歩いて見ても面白い道だ。新宿(にいじゅく)から歩いて来ると同じ様に…。
私も一、二度そこを通った。金町の停車場から、小利根の土手の上までは、七、八町位しかない。この間は細い村道で、かなりに岐道が多い。さて小利根の土手に登ると、かなりひろい流が溶々として流れているのが眼に入る。土手の下には、蘆が深く茂って、風にさわさわと動いている。秋の末頃には、人が丈よりも高い蘆をサクサクと刈っていたりする。上流には、常磐線の鉄橋がかかっていて、その上を汽車が白い烟を挙げて通って行く。水郷(すいきょう)という感じが漲るように胸に沁み込んで来る。
帝釈の裏のところまで、この土手は約十二、三町ある。土手の上には桜が栽えてあって、春は見事であろうと思われる。
帝釈天のあるところは、田園の中である。門前に人家が五、六十軒並んでいるばかりで四面はひろびろとした野原である。祠堂はかなり立派で、西新井の大師よりもあるいはすぐれているかとさえ思われる。例の梨板の本尊も随分名高いものである。申の日の縁日、それから節分会などには、境内立錐の地がないほど賽客が集まるそうであるけれど、平日はひっそりとしている。

(社会思想社発行 田山花袋著 「東京近郊 一日の行楽」より抜粋)

大正十二年発行のこの本を末夫さんが見たかは判らぬが、花袋から約十年後の光景も、さほど変わってはいなかったろう。
二十歳そこそこの青年が一人で桜を愛でに来るとは何とも風雅ではないか。
私の二十歳頃などは花などにはまったく関心がなく、団子にばかり食指が動いていた。
帝釈天参道といえば草団子。
当時は江戸川土手でいくらでもヨモギを摘むことが出来ただろうが、環境が激変した今は地のヨモギを摘むことなどないだろうし、現在の土手に芽吹いたヨモギには食指も動かない。
花袋はこの周辺を次のように描写している。

新宿(にいじゅく)から奥州街道を行くと、二里位で、小利根を渡って松戸に達する。それを帝釈の方へ行くには、町はずれの川の橋をわたって、右に折れて、そして田間の道を行く。
此処で注意しなければならないことは、此処等の畠の見事であることである。こんな立派な、肥料の行きとどいた、野菜のよく出来る畠は、西郊などにはとても見ることが出来ない。それに、畠にはこまごまと色々な種類がある。葱の畑もあれば、そら豆の畠もある。さや豆の畠もある。大根畠もある。小松菜の畠もある。隠元の畠もある。生姜も出来ていれば、小かぶも出来ているという風である。つまり、此処等の農夫は麦とか米とか豆とかいう大物に利益を求めずに、野菜をつくって、そしてこれを都会に持出して、そして生計を立てているのである。
私は至る処に、路傍に車を置いて、娘あるいは嬶(かかあ)が一生懸命に野菜物を収穫しているさまを見た。かれ等はこれを明る朝早く千住の市場へと運んで行くのだ。車を曳く夫のあとについて嬶がそれを押して運んで行くのだ。でなければ、水路を中川から掘割に求めて、そして舟で東京の市場へと運んで行くのだ。私は面白いと思わずには居られなかった。
その代り、この近所には、非常にこやし溜が多い。一町位のところに七つも八つもある。それに畠は絶えず肥料が施してあるから、その臭いことも夥しい。

(同抜粋)

長くなるので引用はこれでやめるが、当時の帝釈天周辺の光景は、現在では想像もつかないほどに長閑な田園に囲まれていたことが判る。

帝釈天裏から「矢切の渡し」に揺られると、対岸は千葉県松戸市、そして国府台(こうのだい)のある市川市である。
ここは伊藤左千夫の「野菊の墓」の舞台としてあまりにも有名な土地だ。
外房に近い成東(なるとう)出身の左千夫がなぜこの地に舞台を設定したかは知らぬが、明治39年に発表されているから、対岸とはいえ、花袋が見た帝釈天付近の光景以上に長閑な田園が広がっていただろうことは想像に難くない。
その描写も作品中に詳しい。
政夫と民子の純愛、悲恋小説は誰もが読む青春の一冊だが、木下恵介の「野菊の如き君なりき」も味わい深い作品だ。
主人公の二人の名前は覚えていないが、脇を固める笠智衆、杉村春子、田村高廣たちの名優の演技が素晴らしかった。
もちろん原作の魅力あっての映画だが、しみじみとした味わいの作品で、観終わった後の余韻も心地よい。

国府台は上総の国府が置かれていたことから地名になった。
総寧寺周辺は里見公園として整備され、里見と北条の戦いも今は夢の跡である。(太田)



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