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zoom RSS 買い出しも旅、茨城の猿島郡まで自転車で 2

<<   作成日時 : 2017/12/23 18:30   >>

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 この買い出しに持って行く品物はだいたい役所からの配給品だった。その主たるものを挙げると、作業服上下(年三回ぐらい配給)、ゴム長靴(年に1,5回ぐらい)、軍手、軍足、地下足袋、ズック靴、ゲートル、作業帽(これらは2、3ヵ月に1回)。こうした品物のほかに使い方もわからない分厚いズックの布地二メートルやゴムの氷枕、麻の南京袋、一升瓶に入った酒等々、どこから仕入れてくるのか、品物ならなんでもいいだろうと、たびたび配給してくれた。

 酒は物交には持って行かれず、初めのころは酒好きの先輩に売っていたが、それでは損だと三人ほどが集まって三升の酒に水を一升を割って四升とし、神田あたりの顔見知りの古本屋に持って行った。酒好きの主人が一口飲んで、「うん、これはいい酒だ」といって一升三十円で買ってくれた。当時二級一升が公定価格で八円だったときの話だ。悪いことだが、こうでもしなければ私たちは生き延びることはできなかった。

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 このころはどこでもそうだったが、猿島郡あたりでも農家では金銭よりも品物を欲しがった。芋は金でも買えたが主要食糧となると品物だった。品物さえあればどんなものでも物交できた。そうした品物優先の時代になったのに、役所の人のなかには買い出しもできず、役所からの配給品がたまると持てあましている人もずいぶんいた。こういう人を知ると私はできるだけそれらの品物を安く買い集めて物交の材料としてためておくようにしたから、さしあたり物交用の品物には困らなかった。

 私が猿島郡で手に入れる食糧は米(糯米も)、うどん粉、小豆などもあったが、それらは贅沢品だったし、交換量も少なかったから、よほど必要なとき以外は手を出さず、ふだんはもっぱら量の多い麦(押麦、丸麦、碾き割り)や粟(餅粟)、それに芋類を主に交換した。

 私が粟を食べたのは買い出しをするようになってからだが、そのうまさはある意味では米以上だと思った。粘りがあってこくがあり、そのうえ腹持ちがよく、麦より少し高かったが、私はこの粟とずいぶん交換したものである。また猿島郡では煙草や茶(とても上等な品物だった)も生産されていたから、煙草が一日六本に減らされても、乾燥済みの葉をわけてもらい、これを細かく刻んで配給品と混ぜて吸ったので煙草だけは不足を感じないですんだ。

 私の場合、物交の交換基準は、作業服上下一式で麦一斗五升か米八升、地下足袋またはズック靴一足で麦五升か米三升、ゴムの長靴一足で麦一斗か米五升、軍手、軍足、ゲートルなど各一足で麦二升か米一升、ゴムの氷枕一つで米三升、南京袋一枚で麦二升か米一升、厚いズックの布地一平方メートルで麦三升か米二升だった。粟はだいたい麦一升に対して八合が相場だった。

 一般的な家庭配給品も節約して残ったものを持って行ったが、電球一個で米二升、マッチの大箱一個で麦三升か米二升には楽に取り換えられたが、化粧石鹸は駄目だった。こうした物交相場は相手が欲しそうな顔をしていれば、交換量を少し増やしたりしたが、だいたいこれが相場で、戦後になってもそれほど変わらなかった(米一升は1,5キロ、麦一升は1,36キロ)。

 この買い出しにも嫌なことが一つあった。それは買い出しの取り締まりだった。買い出しの主流は汽車利用だったから、取り締まり当局の目はいつも駅に向けられていた。私のように自転車利用では、そうした危険個所は通らなかったから、だいぶ不安は薄らいだが、それでも帰りに二ヵ所ほど嫌なところがあった。それが利根川の仮橋と野田で江戸川を渡るところだった。

 利根川はトラックが通れないから大したことはなかったが、江戸川の野田橋は立派な鉄橋で大型トラックがよく通る。この橋の袂に見張り所のような小さな建物があって、そのころさかんだった企業の大口買い出しの取り締まりをそこでしているという噂だった。

 私は帰りに、ここを通過するまで、実に心配だった。しかし、この取り締まりは物交途中にたいがい情報が流れて、事前に知ることができた。それは八俣村の中央部が宿駅のようになっていて、県道が交差しており、一方は岩井から古河へ、一方は境から結城へたまにバスが走っていて、その交差点に店屋があって買い出しの人がよくバス待ちをしていたため、そこでだいたいの情報は掴めた。というのもバスの女車掌がこの村の出らしく、いち速く知らせてくれたからだった。古河駅ではたびたび取り締まりが行われていたようだったが、たまに境が危ないと聞くと、途中から岩井町、野田、吉川、草加と、危険地帯を避けて逃げて帰ってきた。コースをを変えるとあたりの風光も変わり、買い出しをいっそう楽しませてくれたので、少し遠まわりになっても、それほどつらいとは思わなかった。

 私は帰りに利根川とか江戸川を渡るとき、いつも用心してずっと手前で自転車を降り、空身でいったん偵察に行って安全をたしかめてから川を渡った。その用心深さのためか栗橋以来、一度も取り締まりの網に引っかかったことはない。しかし、汽車でしか行けない人は駅でこの取り締まりに遭い、ずいぶん泣かされた話を聞いたものである。

 私が本格的に買い出しを始めるようになって空腹はだいぶおさまったが、物交の品物を集めるのに金も必要だった。このとき私の月給は七十円(年末に七十五円となる)だったが、国債の割当てや物価の値上がりなどで生活は苦しかった。そんなおり役所の二年先輩の職員が、夏ごろから出勤まえの一時を利用して野菜の行商の内職をしているのを知った。彼は一斗罐に小豆とか薩摩芋、野菜などを入れて風呂敷包みにして背負い、本郷の東大前の本屋街を売り歩くのだが、売れて売れて一時間もしないうちに売り切ってしまい、その足で役所へ出勤して来るのだった。東大前といえば私の家からでも歩いて十分もかからない。私はそれを聞くと、ほかに金もうけの方法もないいま、ぜひやってみようと思い立った。

 そして一度見学のつもりで一緒に歩いてみたが、本当に食料品ならなんでもよく売れた。とくに小豆は引きがよく、上等のお茶を欲しがる家もずいぶん多いことを知った。私は先輩に少し品物をわけてもらいたかったが、彼の奥さんが近郊の農家の出で、主人の出勤したあと細々と品物を集めていたので、私のぶんまではとても手がまわらず、とうてい無理だった。そこで私は週一回買い出しに行くとき、小さなリュックを持って行き、帰りに小豆二升と茶筒に二本ほど上等のお茶を買って、出勤まえに売り歩くことを考えた。早速、東大前の本屋街で売り歩いたが、実によく売れて、またたく間に売り切れた。週一回でそれほど大したもうけもなかったが、一ヵ月で月給の半分ぐらいの純益があったように記憶している。ささやかなものだが、これは買い出しの元手として大いにたすかった。しかしこうした内職も、やがて始まった空襲騒ぎで年末までしか続かなかった。

 このころは一回の買い出しに約六〇キロの品物を自転車に積んで持って来た。内職を始めるようになってさらに四キロほどの荷を肩に背負ったが、少しも重いとは思わなかった。いま思うとよくそんなことができたと思うが、そのころは本当に食べることに必死だったのだ。

 〈 草思社発行 長谷川末夫著 「汽車が好き、山は友だち」より抜粋 〉


(転記 太田)

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